先に述べた畳職のS氏は、昭和三十三年の職業訓練法にもとづいて職業訓練指導員の免許制が採用されたあと、昭和三十五年にその資格をとった。長野県では早いほうであったという。その目的は、職業訓練および技能検定をおこなうことによって、工業その他の産業に必要な技能労働者を養成し、職業の安定と労働者の地位の向上をはかり、経済の発展に寄与することである。それまでの訓練体制を強化し、担当者の資質向上のために職業訓練指導員を免許制とし、労働者の技能水準向上のために技術検定制度を設けた(同前書)。先述のF氏が通って大工としての基礎的な技能を身につけた職業補導所は、職業訓練所に衣替えすることになるが、この時期の職業訓練の大きな特徴は技能の水準を上げ、検定によって技能水準を客観的に確認できるようにして、その社会的評価を向上させようとしたことである。F氏は昭和三十九年から補助員、同四十一年と四十八年には委員として技能検定にかかわり、事前講習も引き受けている。
しかし、S氏によれば昭和三十三年制定の職業訓練法の実践状況は、法の第一章総則に述べられた労働者の地位の向上をはかるという点においては、まだ雇用者側に「見習いじゃないか」という意識があって、法の精神が完全に実施されていたわけではなかった。昭和三十七、八年ころには日曜日を休みにし、それまで単価が安かったので、生活のレベルアップをはかるために単価を上げるようにとの国の指導を受けた。製品には認定証紙をつけるようになった。昭和四十年ころに国家検定が普及すると、雇用者の意識も変わってきた。S氏はそのころ検査員をしていたので、地方事務所の人といっしょに県内を回って指導に当たった。このように畳職に関しては、昭和四十年ころを境に職人の訓練法、雇用者との関係、生活のレベル、製品の管理といった点で、大きく様変わりしてきた。
ここでとくに指摘しておきたいのは、職人の「見て覚える」という内容も変わってきたことである。検定でやることが作るものからいってベストではないが、いちおう試験だから基本を満たしていることが要求される。そのため職人としての基本となる最低の要項がどの辺にあるのかわかるようになった。以前ならば丁寧な人は、そこに示された要項よりももっと丁寧にやっていたが、製品の質が級によって分けられ、値段と連動するようになった。そのためかつては新畳ならばいくら、表替えはいくらと、いわばどんぶり勘定でやっていたのに比べれば、特殊な技法にいたるこまかなところまで体系化された。しかし、検定によって技能水準を客観的に確認できるようになったことが、職人の仕事ぶりにも陰を落としはじめた。長い年月をかけて丸ごと技能を身体に覚えこませるのが、従来の職人の技能習得であったとすれば、検定で客観的に測定できる範囲に評価が限られる傾向が生まれてきたのである。