養成工としての建具職の技能の伝承

803 ~ 804

職業補導所で基礎的な技能を身につけるほかに、戦前からの系譜を引く企業内でおこなわれた養成工となって技能を習得したものもある。吉田で建具店を営むO氏(昭和七年生まれ)は、昭和二十一年に建具メーカーに養成工として勤めはじめた。氏が就職した当時は、終戦後の住宅難で建具は足らず、仕事は非常に忙しかった。長野県は森林が多いために木材・木工品工業が盛んで、戦後の戦災復興用の建築材・建具と進駐軍用の家具、また朝鮮戦争の特需にともなって木工業が発展した(『長野の地場産業』)。O氏もそういう時代に生きていた。

 氏の就職した建具メーカーの養成工は、仕事を覚えてやがては独立するという含みがあり、氏もやがては自分で商売を始めようと考えていた。会社でも実際に独立した工員には仕事を回したりして援助した。当時社員が二〇人いたところに一五人が養成工として入り、養成工としてまず三年間働き、先輩の手伝いから始めた。木工と機械に分かれて仕事を覚えた。学制の改正の時期でほぼ同年齢の仲間の半分は新制中学に入ったが、氏は会社勤めをしながら、月四回くらい一年間にわたって青年学校に通い、それから会社で、長野工業高校の建築と長野吉田高校の教養の先生をよんで毎月一、二回講義させたのを聴いた。それ以後にこうした仕事についた人は技能訓練体制が整っていった職業補導所、またのちには職業訓練所に通って、技術と教科の勉強をしていくことになるが、氏の時期はそれはなかった。つまり学制のうえでも、職業訓練方法のうえでも、氏は端境期(はざかいき)にあってひとつ前の段階の過程をへたことになる。