O氏が就職したときの養成工の制度は、日露戦争後の高度の技術体系に見合う熟練労働者が要請された時点にさかのぼるもので、企業が義務教育あるいは高等小学校修了者を養成工として採用して、二、三年間企業の技術体系に合うような技術教育をおこなった制度である。昭和十年代の戦時経済において、法律によって中小工場にまで飛躍的に拡大した(『日本職業訓練発達史〈戦後編〉』)。戦後は昭和二十二年の労働基準法第七章に「使用者は、徒弟、見習、養成工その他名称の如何を問わず、技能の習得を目的とする者であることを理由として、労働者を酷使してはならない」と定めて、養成する必要のあるときには教習方法などについて定めることとした。このように養成を国の認可制にして、戦前の中小企業などで多くみられた、技能取得を名目にした年少労働者の酷使と不合理な技能訓練方法を改めようとした。しかし、理想を追いすぎた面もあって、けっきょく、中小企業などでは国の基準にもとづいた技能者養成はできなかった(同前書)。O氏が就職したのは昭和二十一年であるから、まだ労働基準法は制定されておらず、戦前からの養成工の名称により、内容もそれを引き継いだものであったと思われる。
そのように戦後の労働基準法に準じていなかったことをうかがわせるものとして、いくつかの点を指摘できる。建具屋は大工の棟梁(とうりょう)に当たる人をゴシサンとよんでいたが、工場でも同じで、社長と工場長をそうよんでいた。O氏は入社してすぐに「事務所のゴシサンと工場のゴシサン」という呼び方を教えられた。それにたいし、工員のほうは見習いで、「あれはおらちの見習いだ」という言い方をする。今でも氏の年配の人はどこで仕事を覚えたかということを、こういうことばを使っていうことがある。畳職のS氏がふりかえって述べていた雇用者側の意識と同じものがここにもみられる。養成工でありながら、仕事を覚えてくる二年目からは朝五時から夜一〇時まで働き、寝る時間は二、三時間しかなかったという。年末は泊りこんで働いた。仕事中にうつらうつらすることもあり、「少し休んでこい」といわれて小休止して、また仕事に戻るという状態だった。ビタミンの注射をしてもらったりで働きづめだった。表向きは労働基準法に従う形をとっていたが、未成年者には災害補償は全然なく、ほんらい未成年者には機械を使わせてはならないはずなので、けがをしても工場の近くの外科医が労働災害としない形で治療していた。当時はけがをした本人が悪いということで、補償の要求などはできなかった。氏が鉋(かんな)の刃を足に落としてけがをしたときには、母親がリヤカーに乗せて権堂にある病院まで連れていったという。「けがをすれば、おまえが悪い」という意識だった。