養成工としての木工技能の習得

805 ~ 807

当時の工場の作業工程は、機械部ではじめに材木を鋸(のこぎり)でひいて小割りして、手押し鉋で削り、自動鉋をかけて寸法どおりの木にして、木工部に送る。木工部では穴、ホゾ、溝などの加工をする部分をスミツケし、機械部に戻すと、そこで穴掘り、ホゾ、溝つけなどの作業をする。養成工の一人ひとりが先輩について、最初は掃除をしたり先輩の仕事を見ているなかで、だんだんに仕事を覚えた。道具の使い方では、鉋削りがもっとも基本で、鉋が使えないと何もできなかった。当時の工場では流れ作業で建具が作られていくが、最後の組み立ての工程でも鉋が必要とされていたので、それができないと建具は仕上げられない。そのため鉋の使い方から教えられたが、なかなかいわれたとおりにはできなかったという。自分で鉋の刃を直せるようになるには三年かかる。直すというのは鉋の刃のウラを出す、つまりゲンノウ(玄翁)ではたいていくのだが、鋼(はがね)でできているのではたき加減が悪いとひびを入れてしまうこともある。ウラオシをして完全なものにするが、これができないと鉋は切れない。裏金のほうは逆に切れてはいけないので、いったん刃先をつぶさなければならない。「台を慣らす」といって刃先と台のいっぽうの端だけが板に接するようにする台の微調整も含めて、鉋を使えるようにすることを「鉋を仕込む」といい、鉋を最高の状態に維持できるまでには三年ほどかかったのである。道具は慣れないうちは会社からの支給でやっていたが、徐々にそろえていった。支給物では大事に使わないからということもあるが、自分の手になじんだものが使い勝手がよいからである。最初の鉋は道具を知っていた父親が買ってくれた。鉋が使えるようになるとスミツケを教わった。スコヤ、マキガネ、サシガネ、シラガキ(一枚と二枚)を使う。だから最低でも五年はやらないと仕事はできないが、当時はそれでも自分で独立してやっていくのはむずかしかった。

 いちおうの仕事ができるようになると、最初に作るのは便所の窓で、簡単なものだがなかなかうまくできなかった。引揚者の住宅や公営住宅がつぎつぎに建てられて、学校の窓、住宅の板戸や雨戸を作ることが多かった。乾燥材が間に合わず、生の木を使って作ったものもある。工員が競争で雨戸の鉋かけなどをしたもので、板に節が多くて大変だったという。障子は組みこむのがむずかしいので年数の新しいうちはやらせてもらえなかった。

 このように戦前の養成工の制度をひき、企業内で建具の技術を習得していったのがO氏である。畳職のS氏が昭和三十三年の職業訓練法にもとづいて指導員の資格を取ったころも、雇用者側には労働者を「見習い」とみる意識があって、法の精神はないがしろにされていたというが、O氏の人生においては、そういう時代に養成工として技能を習得する時期を送ったのである。