農業の近代化と曲げ物職人

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昭和三十年代中ごろからの高度経済成長期には基幹産業の高度化が進んでいったが、農業も同様に近代化されていき、それに関連する職人も大きな変化をこうむることになった。篩(ふるい)職人もその一つである。西町で篩商を営むY氏(大正十三年生まれ)は、戦前に木曽山林学校本科で木材加工を学び、中国東北部で就職し、兵役に就くため帰国し終戦を迎えた。帰国後就職が困難で、昭和二十三年(一九四八)から家業の曲げ物の製造、卸を継いで現在にいたる。曲げ物は輪だけを主体とする篩、蒸籠(せいろう)、裏こしなどと、お櫃(ひつ)、メンパ、弁当箱のように底に板を入れてふさぐものに分けられる。氏は輪を主体とするほうである。このあたりの農家では、篩は小麦をとおす、籾(もみ)をふるう、玄米をふるう、精米にして割れ米をとる、ぬかだけをとる、という五種類が必要であった。近在の荒物商からの注文が入るので、これらの時期の前になると夜なべをして篩を作らないと間に合わなかった。昭和三十年代から農業の機械化が急速に進んで、現在では刈り取れば籾になって出てくるまでになり、篩は不要になった。篩は農機具の発達とともに衰退した。


写真2-172 篩作り(西町 平成8年)

 主な使用者であった農家で使われなくなると、旧来の篩から脱却していかなければならない。氏は木を切って削るところから製品までを一貫して生産するのではなく、曲げ輪を買って加工する職人であるから、輪を主体とする篩以外の製品に取り組んだ。そして中華料理用の蒸籠や装飾用を兼ねた器などを作っている。曲げ物商は長野市ではほとんど廃業しているが、氏がテレビやミニコミ誌で紹介されると、東信方面からも引き合いがあり、潜在的な需要はあるといえる。しかし、ボウヤサン(棒屋さん)といわれる農機具の柄(え)を入れ替える職人や桶(おけ)職人などとともに、後継者がいないためにその代限りで技能は伝えられなくなっている。