川中島で工務店を経営するF氏は、東京オリンピックのころに下請けができ、さらに請負できたので、大工としては高度成長期の波に乗ったといえる。仕事が多かったので値引き競争も少なかった。しかし、オリンピックに先立つ昭和三十五年には「組み立て住宅」が発売され、これがのちのプレハブ住宅へ発展していき、住宅の供給に大きな割合を占めていったのである。昭和三十七年には住宅金融公庫の融資対象になるが、それはオリンピック直前の岩戸景気で建設ブームの最中ということもあって、建築費の高騰と大工などの職人不足に対応した、住宅供給の安定化という政策に合致していたからである。プレハブ住宅は工場で住宅の部材をあらかじめ生産しておき、現場で組み立てることによって建設する住宅であって、在来工法の木造住宅が原材料を現場に持ちこんで部材として用いるのにたいして、工場生産という点で特徴がある(『住宅』)。
住宅の工業化が進められていくことにより、在来工法に必要であった技能をもった大工の不足を補うとともに、工業化にともなって建築材料も変化していった。F氏の大工として自立した時期と並行して、大工を必要としない方向で工業化が進んでいたのである。設計もするF氏は工業化にともなう原材料の変化に対応して、設計を変える必要に迫られている。さらに、そうした物質的な変化ばかりでなく、今は在来工法の建築にかかわる技能者としてやっていこうという若者は少ない、と感じている。具体的には、新素材のクロスをはる職人や電気工事の技術者になろうという人はいるが、在来工法には欠かせなかった左官屋にはまったくなり手がいない。セメントをこねたりするのが嫌われるのかもしれない。もっとも、モルタルもサイディングに置き換えられて使われなくなっているし、クロスが普及しているので、なくても困らない。つまり材料の変化が職種の変化を生みだしたといえるのであり、工業化かおよぼした意識の変化といえる。