戦前からの職人の系譜を引いた畳職、建具職、大工職、篩(ふるい)職の人びとが、手に職をつけ自立していったようすをこれまでに述べてきた。ここでは戦後に新しく開発された技術を習得して自立していった職人のうち、溶接工についてみていくことにしたい。鉄工関係の仕事は、コークスで火をおこす火作りという工程をもつ点では鍛冶(かじ)屋の流れを引いている。戦後も鉄を切るのには、二人一組でハンマーではたいて剪断(せんだん)していたが、技術革新にともない、ここに述べる溶接の分野には新しい技術がつぎつぎに導入されてきた。前項までとは性格の異なるものをあえて取りあげるのは、そこに長野で自立して経営していくために共通してみられる産業構造の変化への対応、大企業との関係や職人としての気概が認められるからである。具体的に、川中島で鉄工所を経営するY氏(昭和十年生まれ)を取りあげてみたい。
Y氏は高校の機械科を卒業しており、溶接の基本は実習として経験していた。卒業後、日本無線に三年勤め、その間は希望して板金関係に配属され、見習いの三ヵ月ほど先輩たちに教えられながら、書籍で勉強し、現場に配置されると船舶無線機の骨組みの溶接をした。四、五人のグループでやる仕事のリーダーになって仕事をしていたが、船舶無線機の骨組みが主体で同じ仕事が多かったため、大きい工場では歯車の一部でしかないので自分の腕を磨くのに不十分と思い、町工場に転職し、いろいろな仕事をした。大会社で経験したところでは、会社全体としてはバリエーションのあるいろいろな事業をしているが、個々の溶接工は単純な工程を繰りかえしているにすぎなかった。いっぽう、圧力容器を相互につなぐパイプの溶接や、油圧で上下するフォークリフトなどの重機は熟練の溶接工でなければできない。
緑町の市役所前にあった町工場では、銭湯などのボイラー関係の顧客があり、煙突や風呂釜(ふろがま)も作った。ここの経営者をY氏は親方といっている。職人は多いときで一〇人ほどいて、旋盤専門の人のほかは仕事に応じて二、三人が組になってさまざまな工作機械を使っていた。昔の村の鍛冶屋に相当する作業で、火作りといってコークスで火を起こし、細工物といって鉄をアールに曲げたり、丸棒といって鉄を丸く曲げたりもした。今のように機械化されていれば曲げるのはわけないことだが、道具のない時代だから、鉄を切るにも二人一組で大きいハンマーではたいて剪断した。機械工場の部品を加工する仕事が継続的にあったほか、餅(もち)つき器やコンペイトウ、餡(あん)、佃煮(つくだに)、高野豆腐を作る機械、小型製粉機の台なども作った。熟練の溶接工になれば、それだけで十分にやっていけると確信し、三二歳で独立して三〇年になる。
独立当初の必要な道具類は、国民金融公庫の融資を受けてこれを元手にした。独立して三ヵ月ほどは毎日親方のところに行って、夜遅くまで仕事をしていた。結婚して間もないころだったが、奥さんの協力が大きかった。二人で組んでやると、わずかな助力であっても仕事がはかどるのである。親方以外からは、設備関係の仕事で町工場での実績をみて仕事をくれたのが始まりだった。会社に勤めていた関係で、大きい仕事は規模の大きい事業所でないとできないことはわかっていたので、そこができないようなすきまにあたるような仕事をしようと思っていた。技術を売るということで、独立後も宣伝らしい宣伝はしたことはないが、専門の人が見ればいい仕事だということが知られ、口コミで顧客が広がっていった。いい仕事をしておけば、あとからそれを聞きつけて仕事を頼まれると述べていた大工のF氏と同様に、自分の腕に自信をもって身につけた技術でやっていくというところに職人としての自負か認められる。大会社の長野支店に勤務していた人が他に転勤になって、ファックスで注文し、できあがりを宅配便で送るようにいってくることもある。運送業が発達したため、技術力を備えていれば顧客が広がるのである。冬季長野オリンピック関連ではリンクの真下の配管工事をやった。大手が受注し大きい金額は動かすが、中間に入る業者が小さい仕事を地元に任せる。このあたりに大手のプレハブメーカーと高い技能をもつ地元の工務店、畳屋、建具屋との関係に似た構図をみることができよう。
独立したあとは高度成長期の波に乗れたという。長野の地域性として冬場は寒く、観光地も控えているので暖房は欠かせず、ボイラー室の工事が必要になる。このため県内は全域で注文が取れ、ボイラーの据えつけ後の煙道を作るとか配管などの設備工事の仕事が入る。燃料の地下タンクも作ることがある。これらのために、さまざまな資格も必要になってきた。
長野県では日本溶接協会の全国で最初の支部が昭和二十九年(一九五四)に設立され、翌年から溶接技術講習会と溶接技量検定講習会がおこなわれ、新たな技術の導入と国家検定への対応が組織的になされていった。畳の技能士がそれだけでは仕事に直結しないのとは異なり、溶接の分野では一定の作業工程には一定レベルのものを配置しなければならない規定があり、収入にも直結している。技能検定による水準の評価や、それを裏付けとした顧客の広がりは、かつての鍛冶屋が地元に密着していたのと好対照をなす。地元との関係は、こんにちではせいぜい鍬(くわ)や鎌(かま)が少し欠けたのを直す程度である。農家も草を刈るにも草刈り機を使うというように機械化されていて、昔の鍛冶屋の感覚では想像もできない。
現在は鉄はもう貴重品ではなくなり、消耗品になっている。今後はステンレス製品が伸びていくといわれ、Y氏の息子は川崎の溶接専門学校で学び、長野の会社でステンレス関係の仕事をしてから家に戻って跡を継いでいる。今後はこういった特殊な仕事でやっていくのがいいと考えている。いい仕事をしておけば、あとからそれを聞きつけて仕事を依頼されるというように、技術に自信をもち、新しい素材、技術に対応して生きていく新しい職人像をここにみることができるであろう。