杜煙火の歴史

823 ~ 824

安茂里の、以前久保寺とよばれた西河原・小路・大門・差出(さしで)地域のウブツナサンである犀川神社は、天安二年(八五八)に現在の正覚院月輪(がつりん)寺が創建されたのを機にその鎮守としてまつられたといわれている。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で、長いあいだその社号は日吉山王(ひえさんのう)社として知られていた。ところが文政七年(一八二四)、社号を変更することになり、ここで犀川神社という現在の名称となったという。

 犀川神社の杜(もり)煙火は、この社号変更の披露のさい、松代藩に提出された社号披露に関する文書に、竹筒花火奉納の文字があったとされ、記録上では文政七年を杜煙火の始まりとしているようだ。

 その後も、嘉永二年(一八四九)・安政六年(一八五九)に当時の代官所へ提出された文書にも花火に関係する内容の記述があり、犀川神社の秋の例大祭に煙火奉納がおこなわれていたことがわかる。そのうちの嘉永二年のものには、「神前に於て三神楽(かぐら)相揃候迄は花火これ有り候節は仕掛向へ一切手初申す間敷(まじく)候、尤(もっと)も一弐灯三宝并(ならび)に蠟(ろう)附等三番前は福し申すべく候」(読み下しに改める)とあり、こんにちの煙火奉納の開始の手順と同様の記述がある。こんにちの杜煙火にいたるまでのプログラム上のこまかい変化は後述するが、その大筋は、嘉永二年からこんにちと同様の手順でおこなわれていたことが知られる。

 また、安政六年の文書には、この年、裾鼻(すそばな)(花)川と犀川が増水し、水難をこうむったため、花火の奉納はせず、献灯と神楽奉納のみおこなう旨が記されている。どちらの文書にも花火の記載は少なく、むしろ寛保(かんぽう)二年(一七四二)以降この地で盛んにおこなわれてきたと伝えられている、神楽に関することに多くの文面がさかれている(以上の文書は『久保寺今昔』ならびに北島義雄所蔵の文書写しによる)。

 こんにちの例大祭でも杜煙火と神楽・獅子舞(ししまい)の奉納はいっしょにおこなわれているが、記録による限り、花火の奉納は神楽奉納に華を添えるものとしておこなわれていたのかもしれない。

 なお、前記の文書では煙火奉納は八月二十一日の晩とされているが、現在は九月二十一日の晩と、月遅れでおこなっている。