新諏訪町のウブツナサンである諏訪神社では、秋の例大祭の前夜、煙火を奉納している。諏訪神社の森煙火はこんにちでは通称瓜割(うりわり)煙火ともよばれ、天保七年(一八三六)ごろから現在までつづいているという。
森煙火の起源を説く諏訪神社所蔵の文書には、つぎのように記されている。
(前略)天保七年ニ疫病即チ赤腹卜称スル病流行ノ際、村内重立(おもだち)者ニ於テ協議ノ上、硫黄又ハ硝石ノ香リハ疫病ニ効能アルモノトシ、春ニ森煙火ヲ奉納シタル効果ニ翌年以来、右流行病滅絶シタルヨリ、一ハ以テ神慮ニ叶ヘタルモノトシ、即チ森煙火ハ村内平和卜離ルベカラザルモノニシテ、是レ森煙火再興ノ時代ナリ、以後大神楽ノ奉納ハ村内ノ平和卜豊作ヲ祈り、森煙火ハ流行病予防の祈願トシテ、年々許可ヲ受ケテ挙行シ来タリ(後略) (児玉桂三所蔵の写しによる。読点筆者)
この文書は明治十六年(一八八三)ごろ、長野警察署長あてに提出された煙火許可願の文書である。これによれば、硫黄や硝石の匂いが疫病予防となるため、森煙火は天保七年に再興されたとされている。起源を記す文書はこれ以外残っていないという。引用資料では省略したがこの前段に、弘化四年(一八四七)の大地震のさい、煙火奉納の証拠を所蔵していた村の名主方か被災し、その文書を焼失してしまった旨が述べられている。
この許可願が提出されたのは、明治十五年の赤痢流行とその影響による祭事の自粛があり、疫病予防の効果がある煙火奉納を二年つづきで休止することを憂慮してのことといわれている。また、この時期は民間の手による花火の製造が全国的に禁止された時期にもあたり、そのような状況のなかで煙火奉納の許可を得るための氏子側の動きとも読める。
なお、こんにちと同様、このときも煙火奉納と同時に神楽が奉納されている。