こんにち、諏訪神社の森煙火奉納を支えているのは、氏子中から組織された瓜割煙火保存会である。その前身は瓜割煙火会で、改称されたのは近年になってからである。ここでは正式に改称されてからも通称になっている「瓜割煙火会(または煙火会)」の名称を用いて記述する。
瓜割の呼称は、善光寺の七清水のひとつである瓜割清水が諏訪神社のそばにあったことからであり、新諏訪町の別称として親しまれていることによる。それは瓜割煙火会の名称やかれらが奉納する煙火を一口に瓜割煙火と称したり、この地の人びとの気質をあらわすことばとして「瓜割魂」ということばが残っていることなどに、その意識が投影されていよう。なお、瓜割清水は弘化四年の大地震のさい、場所が移動している。
明治時代、諏訪神社の奉納煙火は氏子の有志たちがそのつど花火をもち寄ってはあげていた。それが組織され、瓜割煙火会と名乗るようになったのは、大正時代に入ってからのことであった。大正時代といえば、後述するように、瓜割煙火の演目が拡張していく時期にもあたり、煙火会の組織化との関係をうかがわせる。
煙火会への入会は今も昔も任意である。瓜割煙火会は諏訪神社の氏子で構成されているため、氏子でなければ加入はむずかしい。ほかに楽しみの少なかった時代には、男児は十四、五歳になると煙火会のそろいのはっぴにあこがれ、加入を申しこんだものだという。
瓜割煙火一五〇周年を記念して発刊された『瓜割煙火誌』に寄せられた記事によると、煙火会の若い衆の作業中に執筆者である加入希望者が「おれを煙火会に入れてくれやー」とひとこと断わって入れてもらうというくだりが記されている。煙火会への加入は氏子の男子であるならよしとするものであった。
いったん煙火会へ加入すると、そこは徹底した縦社会で、花火のことは何もわからない新人は先輩たちにいわれるままに動き、少しずつ花火のことを覚えていったという。ちなみに瓜割煙火会にも煙火の調合法が記された『法調』が三種あったといい、昭和四十年代以降にそのうちの二種が不明になったというが、実際には調合は口伝であった。
こんにち瓜割煙火保存会には四七人の会員がいる。四七人のなかには新諏訪町在住の氏子だけでなく、他地区へ転住している氏子もまた多い。