花火を製造するのに必要な火薬類の取り扱いは、明治以降制約を受けるようになった。まずは明治五年(一八七二)発布の太政官布告で花火の原材料の授受、貯蔵、製造に制約が設けられた。明治七年には愛知県の花火製造者が花火製造の許可を得るにいたったが、明治十七年十二月には「火薬取締規則」が定められ、従来まで花火を製造しているものは翌年二月末日までそれが許可されるものの、それ以降は免許制とする旨が決定した。また、明治三十二年八月公布の「鉄砲火薬類取締法」、同四十四年公布の「鉄砲火薬類取締法施行規則」をへて、花火の製造は許可を得た民間のものに限られるようになった(江口春太郎『花火ものがたり』)。
このように規則がきびしくなるにつけ、無許可者による火薬の調合、その他煙火製造に関する監視が強まると、氏子たちで煙火の製造をおこなうことがむずかしくなった。
現在でこそ火薬の調合や、ところによってはその製造、打ち上げまでを専門の業者に頼み、氏子が奉納煙火に関与しない場合が多いが、犀川神社や諏訪神社では、戦後になってもなるべく自分たち氏子の手で奉納煙火を作ろうとする傾向が残った。たとえば諏訪神社では、火薬を竹筒などに詰める作業は、神社の境内でおこなうのを戦前ぐらいまでは常としていたようである。
花火を作るのに必要な硝石はもとは固まり状で、調合するためにはそれをすり鉢でこまかくすらないといけない。そこで、以前は九月に入ると煙火会の若い衆たちが、広い土間をもっている仲間の家に夜な夜な集まり、火薬の調合に励んでいた。いっぽうで警察はそれを取り締まろうとやってくる。そのようなとき警官はたいてい農民のような格好に変装してやってきたという。
そこで、まだ花火作りのできない若年者は、村の辻(つじ)々で見張りをしていた。見張りは缶からに針金をつけてそれを自分の手元に延ばしておき、変装した警官がやってくるのを見つけるとその針金を引っ張って音を出し、家のなかにいる仲間たちに知らせていた。いくら変装したとしても、変だというのはだいたいわかるので、作業しているものたちがつかまることはなかった。
また、逃げるほうも慣れたもので、みながみな、一方向に逃げることはなく、すり鉢など作業に関するものを抱えながら四方八方に散らばって逃げるのだった。