森煙火当日の宣伝・町まわり

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瓜割煙火は氏子中による奉納煙火であるが、戦後他地域への宣伝も意識的におこなっていたようである。たとえば、戦中一時期途絶えていた瓜割煙火が復活したのは、昭和二十五年ごろであったが、昭和二十年代の終わりのころには祭り当日の午後、若い衆たちがオープンカーに乗って祭りの宣伝に出掛けたこともあったという。宣伝にまわる地区は新諏訪町にとどまらず、若い衆たちの遊び場でもある権堂や鶴賀の遊郭をはじめ、市域にビラを配っていたという。もっとも、オープンカーを使った宣伝は、こどもたちが車のあとをつけていくのが危険だということで二、三年で取りやめになったようである。

 煙火奉納前、夕刻から煙火会の若い衆たちは提灯(ちょうちん)、長持をかついで町まわりをする。あらかじめ依頼のあった家の軒先に煙火会の一行が出向き、自分たちの作った花火の報告をかねて景気づけにあげている。

 町まわりは大正のころから始めた習慣というが、若い衆を迎える氏子の家では酒や祝儀を出すことになっている。また、昭和三十一年(一九五六)に諏訪神社の正遷宮祭がおこなわれたのを機に、権堂町の人から木遣(きや)りを教えてもらい、今日では町まわりのさいに木遣りも歌っている。なお、当日は神楽を舞う人たちも煙火会とは別に町まわりをおこなっている。