若い衆と村人の力関係

840 ~ 841

昔の煙火会の若い衆はやることが荒っぽかった。諏訪神社では祭りのための寄付は、花火と祭りとを別々にする習わしになっている。花火の寄付は煙火会がおおまかな予算を立て、それを氏子の戸数で割って一軒あたりの額を想定している。これは以前でも同様だったと思われる。

 ところで、予想以下の金額しか寄付金を出さなかったらどうなるか。寄付の少なかった家には祭りの当日の町まわりのときに、若い衆が長持をかつぎこんで大暴れするのである。

 その打ち合わせは「一本松」(地名)でした。飛びこむときはまずは纏(まと)いが先頭をきり、そのあと長持が飛びこむ。長持の竿は長いから、それでドカンと目当ての家の戸を突き破り、そのあと若い衆たちがなだれこむ。今だったらそんなことをしたら大騒ぎになるであろう。ところが当時は何もいいださない。あるとき、若い衆たちが荒物屋の店をグチャグチャにしてしまったことがあった。家の人は若い衆たちが出ていったらあわてて戸を閉めて、店の中のようすを他の人びとに見られまいとしていた。煙火会への御祝儀をけちったことがばれてしまうからである。しかし、この飛びこみは昭和十年(一九三五)ごろ警察沙汰(ざた)になったため自粛するようになった。

 飛びこみほど乱暴ではないが、花火仲間が寄付の少ない家の果樹畑に計画的に忍びこんで、ぶどうを失敬してくるくらいのことはふつうであった。今であったら罪に問われそうなことが平気でおこなわれていたのは、それが祭りに関係していたからであった。祭りのことに関しては、やられたほうが悪いと決まっていた。若い衆たちへの非難よりも、やられた家には村へのまとまりの気持ちがないからだ、瓜割魂に欠けているからだと悪評の立つのがせいぜいであった。

 そのような家への制裁は、若い衆たちが主に実行していたから、若い衆に嫌われたら村のなかではやっていけないとさえいわれたものであった。