主催者の変遷とその意図

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長野近郊の農村部では、前述したように江戸時代から奉納煙火という形で花火を作り、楽しむ風があった。善光寺門前の花街(はなまち)として栄えた権堂村でも、江戸時代に遊女屋の楼主(ろうしゅ)が遊客を誘うために出資して煙火会を催したことがあるという。この煙火会は秋葉神社の祭日にあわせて催され、そのさいは、花火見たさの見物人が近郷から多数押しかけ、大変なにぎわいだったという。

 これはこんにち、市内の多くの神社で専門業者に依頼してその祭日に花火を揚げているさまと通じるものがある。ただ、権堂の煙火会には集客の目的があった点に相違がある。

 明治十一年(一八七八)の明治天皇巡幸のさいに煙火会をおこなったことは先に述べたとおりであるが、その後近郷の人びとが集う煙火会は、明治三十二年までの約二十年間途絶えていた。明治三十二年に煙火会が再開されたときにも、商工業者の利益を考え、十一月十九、二十日のえびす講に景気を添えようとの趣旨があった。明治三十二年は長野商工会議所ができる前年にあたる。煙火会が三十二年に再興された当初は、開催の目的こそ商工業の発達を掲げていたものの、有志の主催によっていた。

 明治三十五年から大正三年(一九一四)までは、鶴賀新地の遊郭の業者らが、各町から受ける寄付金をもとにこのえびす講煙火の主催をしていた。ところが、大正に入ると民間の寄付金のみで煙火会を開催することがむずかしくなり、大正四年からは長野商業会議所の別動機関であった長野商工懇話会がこれを支援するようになった(『長野商工会議所六十年史』)。以後、第二次世界大戦中の国家事業で昭和十五年(一九四〇)に中止されるまで、えびす講煙火大会は長野商工懇話会を中心とする全市的な事業として開催されることになった。