戦後の復活

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昭和二十二年(一九四七)まで中止になっていたえびす講煙火大会は、戦後商工会議所が再建されるとただちに復活し、戦前と同様の十一月二十日におこなわれた。こんにちでは長野商工会議所と長野商店会連合会とが主催している。

 えびす講とうたってはいるか、この煙火大会は西宮(にしのみや)神社とは無関係である。だが、西宮神社のえびす講がおこなわれる十一月二十日という時期は、近郷の農家にとって秋の収穫後の収入がある時期で、各家庭が冬支度を考えはじめるころにあたる。えびす講煙火大会は、当初からこの時期におこなわれる市内の商店の売り出し期間に景気を添えるのを目的に催されたものであったから、前項で述べたような、氏子による煙火奉納の意識とは無縁であっても不都合はなかった。特定の地区にとらわれない、多数の集客こそがその目的であったからだ。

 商工会議所という、地域を越え、市域を越えた組織が主催する煙火大会は、神社の祭礼のように地域や伝統にとらわれる必要がないだけに、その時々の情勢によって変容する。そのことを花火の打ち上げ場所の変遷を例にあげてみてみよう。

 明治末年に開催されてから、えびす講煙火は東鶴賀の「遊郭田圃(たんぼ)」といわれていた高土堤(どて)で打ち上げられてきた。これは第二次世界大戦後しばらくつづいていたが、昭和三十三年からは旭山中腹(通称ドン山)に移され、昭和四十一年には丹波島橋下流地域、翌四十二年から四十七年までは雲上殿横の台地を中心にバードラインにかけてをその打ち上げ場所にしてきた。こういった移動は、打ち上げの周辺地域に人家が増加したためで、安全確保のために移動せざるをえなくなったのである。打ち上げ場所は、その後も四十八年からは丹波島橋上流地域、平成三年(一九九一)からは丹波島橋下流地域というように、煙火大会の規模が大きくなるにつれ移動している。

 そもそも、長野のえびす講煙火大会は、再開された当初から、規模の大きな煙火大会として近県にまで名の知れた煙火大会であった。えびす講煙火を主催する長野商工懇話会の代表的存在であった実業家鷲沢平六は、もともと花火作りの盛んであった長野の花火師たちの技術向上を奨励し、技術の低い花火師にはえびす講煙火大会への出品を許さなかったといわれている。この煙火大会が「出世花火」といわれるゆえんである。また、大正四年(一九一五)七月には長野県全域の花火師たちをまとめる長野県煙火組合が組織され、県内の花火師の技術向上に一役かっている。全県組織のこの煙火組合は全国に先駆けてのものである。このことなどは、長野県の当時の花火製作技術や、技術向上にかける意気込みの高さを物語っていると思われる。

 以上のような経緯もあって、えびす講煙火大会では、明治末年から当時では非常に珍しかった尺玉の打ち上げもあり、その後も大玉の早打ち、二尺玉の打ち上げなどが目玉とされるような、技術と規模とで有名な大会になっていった。打ち上げられる花火が大きければそれだけ打ち上げ場所の許可が取りづらくなる。たとえば二尺玉を打ち上げるには、半径二五〇メートル以内に人家や危険物があってはならないという。先に記した打ち上げ場所の変遷は、この煙火大会の規模の変化を考えれば当然の結果といえる。