既成の生活空間のなかに徐々に家を建てて住み着く場合には、従来からの地域社会のなかに吸収され、同化されやすい。しかし、一時に多くの人が集中して住み着いたときには、吸収することが困難になることがある。もちろんそれは空間的なことではなく、生活集団としてである。
近郊の四〇戸ほどの農村集落Mが、急激な世帯数の増加をみたのは昭和四十年代の後半からであった。一〇年間ほどのあいだに、その世帯数は四〇〇戸ほどに膨れ上がった。その多くは、個々の農家が独自に造成した小規模な住宅地に移住した、単独の家々による既成の地域社会への加入であった。したがって、そこには新住民との多少のあつれきは存在しながらも、在来の地主の存在をとおして、まずは従来の社会の枠組みのなかに吸収されていくことが可能であった。もちろんその結果、その集落はすでに農村としての体裁や性格の多くを失わざるをえなくなった。しかし、村の組織は基本的に従来のものを踏襲(とうしゅう)し、祭りを中心とする行事もほぼそのまま継続することができた。
しかし、同程度の集落であっても、その一角に、県の企業局の手によって住宅地が造成されたときには、そこに一つの地域社会が出現することになった。それはまず、今まで畑であったところにまったく新しいスタイルの家々が立ち並ぶという空間的、景観的な面による地域社会の出現であった。しかも、そこに住むことになった人びとは、基本的にはその地域とまったく関係のない人びとであった。長野市域の公営住宅団地などに居住するのは、市内あるいは近隣地域出身の人たちが多い。そして市内に職場をもっている会社員のほか公務員や教員などが、よりよい住宅環境を求めてまず入居した。
このような団地は昭和四十年代に入るとつぎつぎと造成されていった。もちろんもっと早い時期のものもあり、城山団地は昭和三十二年(一九五七)に入居を開始したという。しかし、いずれにしても農地や山林原野のようなところに、従来見られなかった新しい住宅地が出現し、居住者も在来の住民とはかならずしも共通の生活体験をもたない人たちであった。在来の人たちからすれば、「村と違う都市の住民のセンスとプライドをもっている」ともみられるような人びとの居住地であった。そのために、住民組織としての自治会も、最初から独自のものをもとうとする傾向が強い。別に対立するということでなくても、いっきょに何十世帯、何百世帯という新しい住民を在来の組織に吸収することは困難であった。