祭りの創造

865 ~ 866

団地の住民が最初から在地の神社の氏子となっている場合がないわけではない。城山(じょうやま)団地の人びとは湯谷(ゆや)団地とともに、上松・湯谷(上松)・滝(同)の氏神である駒形嶽駒弓神社とその里宮である若宮神社の氏子である。この神社の氏子は善光寺の行事にも深くかかわっている。歳末には団地からも出ている五人の氏子総代が、善光寺・大本願・大勧進で正月に飾る松を切って善光寺にもっていく。また、善光寺の堂童子(どうどうじ)行事が明ける正月十五日過ぎには、それを祝う大盤振る舞いにあずかるのである。したがって、若宮と本宮の祭りにも同じように参加している。ここでは、「びんずる祭り」に小学校六年生までのこどもによるこども神輿(みこし)を出している。役員たちは公会堂で、その神輿が帰ってくるまで待っているのである。

 若穂団地では地域内に天命稲荷神社がある。これは団地が造成される以前からまつられていたものである。団地ができてから、この稲荷神社をまつっていた地権者から、「団地がお守りしてくれ」という申し出があり、奉賛会を組織してまつることになった。したがって、区でまつる神社ではないが、その祭りは団地の祭りといってもいいほどの祭りである。祭子連とよぶ神楽(かぐら)の連があって、四月と十月の祭りのときには獅子舞(ししまい)を奉納する。また、二年参りのときにも奉納する。このほか新築・改築のときには頼まれて厄払いをするし、祝い事のあったときにも舞った。祭子連は希望者の集まりで、獅子舞は和田(古牧)のお師匠さんから教えてもらったものである。人びとのふれあいにもなり、みんなの楽しみにもなっているという。祭りには神輿も出る。神輿は、樽(たる)神輿も宮型の神輿もあり、ぜんぶで三基ある。祭りは団地の最大の行事の一つであるという。

 若槻団地ではこどものためにお神輿を作り、昭和四十七年(一九七二)から祭りに参加している。団地には神社がないので、自治会ができてまもなく隣接する集落の神社の氏子になり、氏子会を作った。そして、この氏子会が中心になって、神社維持の費用の負担をしたり、祭りなどに参加したりしている。