人びとは生涯を託するに足る地域社会を作るためにさまざまな試みをおこなう。自然発生的に集まった人びとが、長い歴史のなかで自分たちの地域社会を作ってきたのと異なり、短期間に、狭い地域に、一つの村落の人口以上の人びとが密集して地域社会を作りあげようとする。それが団地とよばれる新興住宅地である。
賃貸の住宅団地であるならば、いずれはそこから出ていくことが予想される。また、住民はその生活に合わせて生活の場を移動する。地域社会としての安定度は低い。しかし、分譲住宅の場合は、かなり定着度は高いはずである。少なくとも、ローンなどを利用して購人した住宅であれば、それほど簡単にはそこから出ていくことができない。そこに、「肌が合う」人びとによる暮らしやすい「生活の仕方」を求める理由がある。また「ややこしくない」「負担の軽い」生活も求めようとする。
だが、見ず知らずの人びとが集まった集団においては、そう簡単に実現することはできない。そのために自治会の結成があり、親睦を深めるための祭りがあった。また、神社の創建もおこなわれたのである。しかし、それらは建前であり、特別の数少ない機会によるものであった。日常的な活動にもとづく試みもおこなわれなければならなかった。
『浅川団地会報』一号は昭和四十四年(一九六九)十月一日付けであり、団地自治会が結成されてから五年経過していた。この間において、住民がどのように自分たちの社会を作っていこうとしていたか、ときの自治会長は会報の巻頭につぎのように記している。
(前略)この間、役員および会員の皆さんが団地を育てることにつきましては、行なうことは行ない、言うことは言い、御協力を惜しまれないことに、深く敬意と感謝を申し上げる次第です。(中略)防犯灯を宅地内へ建てさせて下さった方。嫌な塵埃(じんあい)置場を承知下さった方。毎朝通勤通学路を清掃されている方。道路の欠損を補修されている方。地下道の清掃をしている浅川小の子供さん。バス待合所を毎日清掃される方。会館へ雑巾(ぞうきん)やコタツ下掛を作ってくださった方。花壇づくりや清掃をされる喜の寿会。防犯灯へ何時でも点灯してくださる、岡田、山岸電気商さん。交通安全指導をされた、塩沢駐在さん、太田さん、PTA、安全協会の方々。児童を指導された育成会。消費生活に協力されている勤労協。会館へ額を寄せられた婦人会。運動器具の保管を引受けられた方。柏与(かしよ)さんよりコピー器の寄付を心配下さった方。川中島自動車さんへ駐車標識設置や会館北東の道路コーナーの工事を心配して下さった方々。バラ苗の寄付、球根寄付をされた方々。行事にいつでも御厚志を寄せられる商店街の皆さんや熊井郵便局長さん。隣組長さん。役員さん。等々数えきれません。(後略)
大勢の人びとがさまざまな活動を自主的におこなっていたことがよくわかる。もちろん、このように新しい地域社会を作るために、日常的に努力を惜しまなかったのは、いずれの団地においても同じであったと思われる。ただ、このような集団住宅地が、県にしても市にしても、行政的なものとなんらかの形でかかわっている場合には、個人としてばかりではなく、自治会などの住民組織が、行政側と対応しなければならないことも多い。
たとえば、昭和四十三年に入居が始まり、翌年に自治会が発足した若穂団地において、『若穂団地二十年史』によれば、まず最初の仕事は「各種団体への挨拶回りや各方面への陳情でした。陳情の内容は、団地内二個所のバス停設置、公衆電話二個所の設置、集会所の設立等」であったという。こうした陳情は入居者が増加し、地域社会が拡大することによってさまざまに拡大する。四十五年度には環境整備を進めるとともに、ホースなどの購入について、遊具設備の整備、ガードレールの設置、防犯灯の設置、防火水槽の設置、年末防犯についてなどの陳情がなされた。四十六年には直接市長を招いて懇談し、四十七年には保育園の新設、集会所増設の補助金、防火水槽消火栓の増設、道路舗装、側溝改修、歩道および安全施設の設置、保科川の河床整理と護岸工事などの陳情をおこなっている。四十八年には小出(若穂川田)の「つつみ」の不燃物埋め立て反対決議や採石工場公害反対などの活動をおこなったのをはじめとして、保育園の新設促進、防火水槽消火栓の増設、歩道および安全施設の設置、保科川の河床整理と護岸工事、道路舗装、側溝改修などの陳情をおこなっている。また、予防接種、各種検診を団地集会所でできるようにとか、団地内空き地の所有者を明示して草取りをするように、あるいは河川の保全区域の設定と占用許可をあたえないようになどというような要望を関係方面にも出している。このような活動はその後もさまざまな問題をめぐっておこなわれている。
これからのよりよい生活の実現に向けて、私的にも公的にも、個人としても組織としても取り組んだ状態がよくわかる。このようにどこの団地においても、その細部においては多少の違いはあっても、いずれも新しい地域社会の形成に向けて努力を傾けたのである。