そのような環境整備のなかで、人びとの交流をはかるための活動も展開されていった。『若穂団地二十年史』によれば、若穂団地でも昭和四十三年十月には団地内の天命稲荷神社の例祭をおこない、四十五年にはドンドンヤキをおこなっている。四十六年には老人クラブと育成会が結成され、四十七年には団地だより『りんどう』が発刊された。四十八年には盆踊りが始まっている。また、五十三年には「ふるさとづくり」として若穂団地親睦楽演会をおこない、団地の活性化の一環として神楽を創設することとし、五十四年には若穂祭児連(のちに若穂団地祭子連と改称)を結成している。
昭和三十九年に入居を開始した浅川団地においても同様であった。『まちのあゆみ』によれば、四十年に自治会を結成し、四十一年には団地婦人消防隊と「喜の寿会」が結成されている。そして団地懇親囲碁大会・団地体育祭を開催し、第一回文化祭(のちに団地祭に改称)も開催されている。四十二年には団地内美化のために定例清掃を開始する。四十三年には第一回敬老会が開催されるとともに、乳幼児託児所「北部愛児園」(のちの「ひかり幼稚園」)が団地内に開園する。四十四年には『団地会報』(のちに『団地だより』に改称)が創刊され、団地会員名簿を作成して全戸に配布している。そして「浅川団地住民の生活が落ちつくに伴い、精神的なよりどころともいうべき、神社に対する願望が表面化して」五十二年には浅川神社が創建されている。
このようにして築きあげてきた新しい地域社会は、ようやく移住第一世代からそのこども・孫という第二・第三世代へと主役が交代しようとしている。団地内における行事、あるいは自治会活動などにおいても在来の地域とそれほど異なっているわけではない。
昭和四十五年に自治会を結成し、地域社会としての体裁を整えた若槻団地は三〇年をへて、自治会規約・表彰規程・慶弔規程・旅費規程・専門委員会規程・会館使用規程・駐車場使用貸借契約書・自治会館消防計画・自治消防防災連合会会則・婦人消防隊設置規程・高齢者友愛活動実施要領などを整え、地域社会として確立している。その活動内容からみても、新興住宅地としての特色は容易には見いだしがたい。ただ、たとえば平成七年度自治会事業計画書に「ふるさと醸成」という項目があり、ドンドンヤキの実施を計画しているところなどに、みずからのみならず子孫の生涯を託そうとする地域を新たに形成しようとする姿勢をみることができる。
だが、この三〇年ほどのあいだに時代と社会は大きく変わった。核家族の増加と少子化の傾向はいっそう進展し、高齢化社会は老人世帯、老人の独り暮らしの増加をももたらした。若槻団地における「高齢者友愛活動実施要領」は、そのような高齢者の問題に対応しようとするものである。このようにきちんとした対応をおこなっているところでなくても、団地の住人が高齢化し、それなりに地域社会の体制は整っていながら、かつてのような活気がみられなくなってしまったところは多い。
若穂団地では平成六年(一九九四)の時点で、二七三世帯、八三五人である。一世帯平均約三人であるが、独り暮らしは二一世帯、二人暮らしは七四世帯、そして三人暮らしが六四世帯である。約五九パーセントの世帯が三人以下ということになる。ちなみに四人家族が五九世帯、五人家族が三四世帯、六人家族が一三世帯、七人家族が七世帯、八人家族が一世帯ある。八人家族というのは息子夫婦とそれぞれの老人夫婦、そして孫二人の家族である。このような三世代同居の家もあるが、その数は少ない。そして八〇歳以上が一六人、七十代が五一人、六十代が一二五人であり、約二三パーセントが六〇歳以上である。割合からするとかならずしも高齢化社会というわけではないのかもしれないが、心細いのは外に出ているこどもたちが家に帰ってきて、ここに住む見通しがたたないことだという。
新たにつくりだされたこのような地域社会が、ほんとうの社会として人びとの生活を支えるものにするのは、今ここに住んでいる人たちの努力だけではない。そのこどもや孫たちの思いやりだけでもない。今の時代を生みだし、今を生きるわれわれみんなの責任である。まだまだこれからも、新しい地域社会は生みだされていく。そこにはその地に人生を託そうと努めている多くの人びとがいる。そこにつくりだされる社会が、それぞれの人生の最後のときまで、その人を支えるものであることを信じているのである。