昭和三十二年の記録をみると、安達神社の祭りにおけるようすが日記風に具体的に記され、ここに初めて出張(しゅっちょう)神楽ということばが出てくる。
一、安達神社例祭
春(五月四日、五日)秋(九月二十一日、二十二日)二期の各例祭には、規約に基き連中一同で夫々(それぞれ)祭典準備に奉仕し、春秋共宵祭(よいまつり)には連中一同による神楽二頭を奉納、更に秋祭は本連総会の決議により、花火師を依頼しての仕掛け花火を境内において奉納、その経費は金四千五百円、外に連中一部有志より、壱千円の花火奉納され、三年豊作を謳(うた)われる秋祭の慶祝を、いやが上にも盛り上がらせた。
一、出張神楽
八月六日臨時総会を開き、例年に倣(なら)って市内町会より依頼があった場合は、回数を限って本連中一同で神楽繰出しに応ずる事を決議し、その結果、八月十七日大門町を皮切りに九月三十日の妻科神社の例祭に至る間、八晩十五頭を繰出し、その収益総計参万四千五百弐拾円、その金は安達神社祭典費の一部、神楽諸道具の修理費及び出張神楽の慰労会費に充当する。
出張神楽ということばはここに初めて出てくるのであるが、実際には明治時代からおこなわれていたらしく、昭和二十二年九月十日「若者連臨時総会ノ総意ニ依リ、市内十二神社ニ神楽奉納ス」、昭和二十三年八月十五日「(臨時総会において)大門町ノ神社ニ神楽二頭奉納スル事ヲ決議ス。ソレヨリ市内各神社ニ神楽十五頭奉納ス。ソノ神楽代及御祝儀金一万七千十円頂戴ス。」と記されている。
古老によると、こどものころは獅子頭を納める神楽は、上のほうが重いのでバランスをとるため下のほうのたんすに重い石を入れ、六、七人でかついでいったという。終わって帰ってくるのは遅く、須坂に行ったときには朝二時になっていたという。戦後はリヤカーにのせて自転車で引っ張っていったが、のちに軽トラックにかわった。これは、昭和三十五年に出ないことに決議されるまでつづけられた。平林の若者連は他町村とのつきあいを大事に考え、祭礼への協力を惜しまなかったのである。
若者連が解散したのは昭和三十六年で、その理由は、若者連に入会者が一人もなかったからであった。戦後の経済復興が果たされはしたものの、村の若者が祭礼を協力してになっていこうとする意欲は薄れてしまったのである。それでは若者連が解散されたあと、はたして出張神楽は途絶えてしまったのであろうか。