平林は、長野市旧市街地の東に位置し、村の中央を走る道は平林街道とよばれ須坂市から中野市方面に通じている。近世には平林村といわれ、農業中心の村であった。人口は、昭和初めころからほとんど変化なく八〇戸であったが、昭和四十年代から住宅が増え、今は八〇〇戸になっているという。記録によると慶応四年(明治元年・一八六八)に五一戸、三〇五人、昭和二年(一九二七)に六三戸、三三五人であったが、昭和五十五年には五一六戸、一六九三人である。これは、近世末期と比べると、戸数は一〇倍、人口は五倍となっていることになる。
平林は、昭和二十七年の集落地図(図2-41)を見ると、集落の真ん中を東西に平林街道が延び、それをはさんで集落があり、その集落を囲むようにして田畑が広がっている。そのころまでは集落の固まりがはっきりしていて、隣村にいくまでは田畑が広がり家は一軒もなかったという。それが、昭和十九年に車両・貨物基地が移転してくることになり、村の裏にあたる北側の八万坪の農地を国鉄長野工場に明け渡すことになった。農地をなくした家では、農業をやめ二十数人が国鉄長野工場に勤めることになった。さらに、昭和四十年代には下流の水害を防ぐために村の表にあたる南側を滞水池にすることになり約一万坪の農地が買収されることになった。
その後、市街地への通勤が便利であることから、勤める人が年々増え、現在では自分の家で食べるだけを作る兼業農家がほとんどで専業農家は一戸のみとなった。また、市街地に店をもっている人が家を平林につくるなど、あちこちから新しく引っ越してくる人が多くなり、田畑がアパートや住宅地に変わっていく。
昭和三十六年に若者連が解散することになった背景には、人口は増えつつあるものの勤め人の増加によって、神楽の稽古に打ちこむ時間を割くことができなくなったという事情があった。また、村の住民の興味関心が村の外に向き、娯楽も多様になり、個人による楽しみが増えたこともその背景にあった。