Eさんは、平林の若者連が昭和三十六年に解散し、氏子総代が神楽を出せなくなってから、平林神楽保存会の一員として奉納獅子をつづけていこうと考えた。こどものころから妻科や三輪に高張り提灯をもって神楽をかついでいくのをみて育った。東京へ奉公にいき、兵隊検査を受けて甲種合格して兵隊になり、昭和二十一年に二五歳で復員してきて若者連に入った。だから遅い入会だったという。従来、冬場の農閑期に練習し春祭りまでに覚えるようになっていたが、三ヵ月で舞をやらされて大変きつかったという。幸い負けん気が強かったので技術を競おうと思って練習したが、「まだ、おじょこだぞ」といわれてなかなか実際の祭りで舞をやらせてもらえなかった。ようやく舞の基本ができたからといって安心してはいけないという。これでいいと思っているとその人の癖が入って崩れてくるからである。そして内股(うちまた)でかかとをつけないで足を運び、腰を落とすことを学ぶには役もちをやるのが一番いい。また身体は幌(ほろ)に隠れていても身体の動きがそのままあらわれてくるということなどもわかるようになった。やがて、舞に自信がつき、村の先輩から神前で千回舞ったら初めて厄よけの神楽になれるといわれ、昭和三十五年から自分の獅子をもつようになった。共有物だとどうしても大事にしないものだという。自分の獅子の耳にはずうっとお札とお守りを入れてあるという。
舞には、平舞のなかに村舞と本舞があって、余興獅子として狂い獅子がある。平舞は笛と太鼓がリードするが、狂い獅子は獅子がリードしなければならないので、大変むずかしい舞である。この舞ができるようになるまでにぜひ自分の女弟子を鍛えたいと思っている。
七五歳になるEさんは、市街地周辺の吉田、上松、妻科、上高田、豊野(豊野町)などに獅子舞を教えた関係から、「ごっしやん」とよばれ、神楽仲間の元締めをしている。市街地のほうから要請を受け、出張神楽のスケジュール表を作らなければならないのだが、最近は、ほんらいの祭り日を氏子の勤めの関係などから土・日の曜日に移したいという希望もあって調整がむずかしいという。