問屋町として栄えた東町

888 ~ 889

善光寺の近くに位置する東町は、大正初めから昭和三十年代にかけて問屋町としてずいぶん栄えた。魚市場、お菓子屋、衣料の卸問屋、畳屋、油屋、下駄屋、乾物屋など五〇軒から六〇軒もの店が並んでいて、多くの小売店主や参拝客などが買い物に集まった。とくに、十一月十九日夜のえびす講(宵えびす)のときには、鯛(たい)売りの屋台が出てにぎやかなものだった。道幅は今より狭かったが、トラックが走り、荷車がガタンガタンと通りすぎた。品物を納める蔵もいくつもあった。魚屋だけで五、六軒もあった。卸の店では一〇人もの泊まりこみの従業員がいた。須坂市や飯山市、遠くは越後などから住みこみできて、五、六年働いて暖簾分(のれんわ)けしてもらい独立をしようとして働いている人びともいた。もともと、そこに住んでいる人より従業員のほうが多かった。この町で魚屋をやって七代目のTさんの話によると、当時は朝昼晩と御用聞きに宿坊や料理屋や旅館に帳面をもってうかがい、盆暮れに勘定するのが一般的だった。従業員は一日と十五日が休みの日で、映画を見るのが楽しみだったという。しかし、昭和四十年代に市場の移転があり、この町に働いていた人びとがいなくなってしまい、神輿のかつぎ手がいなくなってしまった。『二十年間の長野市』(長野市役所 大正六年)によると、大正五年(一九一六)には戸数一七八戸、人口一〇〇二人、それが平成五年(一九九三)では戸数八二戸、人口約二百人の町となった。


写真2-205 東町通りの家並(平成7年)