神輿の中断から復興へ

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東町には善光寺と関係の深い神社でもある武井神社があり、二〇ヵ町の氏子をもつ。東町は常任年番として神楽の奉納をやっていた。青年会のメンバーが、氏子が御遷宮のときしか使わない神社のお神輿をもちだしてかつぐという出来事がきっかけとなって、昭和二十五年(一九五〇)に寄付を得て町の神輿が作られ、一九歳から三〇歳ぐらいまでの青年会や卸問屋の従業員が七〇人ぐらい集まって毎年町内を練り歩いた。しかし、問屋街の移転でかつぎ手が不足し、一七年間中断することになった。

 東町で酒屋をしている三代目のTさんによると、今から一九年前(昭和五十三年)、武井神社のミサヤマ祭りが、土曜日であったので、神輿を出そうということになった。若い人が少なくなって途絶えたままたが、やっぱりかつぎたいという話になったのである。そこで壮青会という名前の会を作って、年配の人でも希望があれば参加してもらえるように幅広くよびかけることになった。会費は一〇〇〇円で五、六万円費用が集まった。法被(はっぴ)は各自できあいのものを個人負担で買った。大門町や横町など近隣の町からの応援も得て、町内の従業員にもよびかけ、当日は八〇人ぐらいが集まった。二十代の人もいたが、三十代後半の人が中心になっての神輿かつぎとなった。久しぶりにかついだので新鮮さがあり、なつかしさを味わうことができた。これからは武井神社の御柱(おんばしら)に合わせて、出せないかという話も出たが、平成八年までまた途絶えたままとなった。

 平成八年八月二十六日、武井神社の祭礼日に東町の神輿が復活することになった。長野市内の会員が集まって作った信州神輿保存会(善睦会)の協力を得ての復活だった。夕方六時半に集まり、神事をおこない、七時から九時まで神輿が練り歩いた。安全祈願のお祓(はら)いをして、お神酒(みき)を飲んでから出発した。地元からも五十代以上の人が三〇人参加した。善睦会から八五人が参加し、一トン近くある神輿が中心街を練り歩いた。高張り提灯をもって女性二人が先導した。役員の家などでは神輿が止まり、善光寺木遣(きや)りの奉納があった。扇子をもった人がまず歌い、掛け声が全員によって唱和される。

  やあれ、めでたいなあ 峰の小松に雛鶴(ひなづる)かけて 谷の流れに亀(かめ)遊ぶよう 先綱

  やれめでたや この屋の家はめでたいお家 鶴が御門に巣をかけたような 先綱

  あれめでたや 長く咲くのはクルミの花よ かたく結んで丸くなるよな 先綱

  あれめでたや そろたそろたよ 若い衆がそろった 稲の出穂よりなおそろった 先綱。


写真2-206 善睦会の神輿(東町 平成9年)

 町の外からの協力を得て神輿が復活した理由を区長は、「神輿を出すことによって町の活性化がはかられればと思う。そして、祭りをとおして日ごろなかなか一堂に集まる機会のない町の人たちの親睦をはかることができ、お互いに町住民の思い出の一ページとなれば」と語っている。この町は問屋で栄えた町で、三代続いた問屋として雑貨、砂糖、魚、建築資材、文房具などがあったが、今は町全体の三分の一の人は新しく引っ越してきた人びとである。また、東町には公民館がなく、話し合う機会が少ない。したがって、神輿をかつぎ合うことで、一体感を回復し、町の人たちの気持ちが分断されてしまうことを避けたい、という願いにもとづくものである。隣近所といってもばらばらで、話をしなかった人たちがいっしょになり、神輿をかつぎ、行く道々話を交わしたりしていい雰囲気を作ることを願っての復活だった。