千歳町は、明治の中ごろに問御所から分離して生まれ、のちに南千歳町と上千歳町とに分かれた。そして、善光寺のそばの大門町から「これからは鉄道の時代だ」と宣言して進出してきた人が初代区長となり、長野駅のそばの町として出発していく。町の変遷をまとめてみるとつぎのようになる。
明治十五年九月 長野中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社の中沢与左衛門らが発起人となり信越鉄道会社を設立する。
明治十八年 問御所から、千歳町が独立する。
明治二十一年五月 直江津-長野間に鉄道が開通し長野駅ができる。
明治二十三年 千歳町通りができる。
大正六年 上千歳と南千歳の二区に分かれる。
大正十一年 戸隠講ができ、戸隠中社へ太鼓をあげる。
大正十二年八月 旧公民館であった南千歳町会館が施工される。総二階建モルタル仕上げであった。
大正十二年十月 千歳の宮ができる。遷座祭りは大正十四年の八月におこなわれた。
昭和元年 長野電鉄の権堂-須坂間が開通する。
昭和三年六月 長野電鉄の権堂-長野間が開通する。
昭和四十年十月 第一回駅周辺整備計画の説明会が開かれ、町の家の全面改築が決まる。
昭和五十八年 長野大通り・駅前広場・東西連絡地下道の開通式がおこなわれる。
平成二年二月 区画整理事業が完成する。
町が生まれた当初は、桑畑や田圃(たんぼ)が広がっていただけであったが、鉄道開通後住宅がどんどん増加し、大正時代の初めに町の神社として千歳の宮がまつられた。新開地である千歳町にきた人には商人が多かった。大正のころには瓦(かわら)焼きを商いとする店が、新築の家々の需要に応じた。また、長野駅を控えた町であったので一線路から三線路まで貨物用の線路があった。倉庫が多く倉庫に隣接して従業者の住む長屋が並んでいた。運送業を営む人もたくさんおり、馬のくつわを作る鍛冶(かじ)屋も二軒ほどあった。西山地域から村人が運んでくる品物を馬車で駅まで運んだ。また、炭や薪を取り次ぐ炭屋も多くあった。駅の近くには人力車屋が多く、大正時代までにぎわった。
この町は長野駅善光寺口から北上する千歳町通りと旧国鉄信越線とにはさまれており、住宅もかねた小売店と、旧国鉄に関連する倉庫や中小工場などが乱立し、道路は狭かった。昭和三十九年(一九六四)に国鉄の近代化で貨物関係の施設が北長野駅方面に移転したことから、全面的に区画整理をすることになり、昭和四十二年から二五年ほどをかけて、家屋の取りこわしと道路の拡張をおこない共同建築のビルができた。その結果整理前には八〇〇棟ほどあった家屋が二四〇棟ぐらいとなった。そして長野駅前の広場から北に向かって、長野大通りと千歳町通りが走り、商店街の中央に南千歳公園が作られた。現在、テナントやブティックの店が二〇〇店舗も並ぶ市内でもっとも人通りの多い町になった。
しかし、以前からこの町に住んでいた人のなかには引っ越しをした人もあり、郊外に新しく家を建てて、昼間は自分の店に通ってくる人もある。昼は若者でにぎやかだが、夜になると町の人口は少なくなり、いわゆるドーナツ化現象が生じた。昭和四十年ごろ二〇〇〇人ぐらいあった人口が、平成元年(一九八九)ごろには七八〇人ぐらいになった。