南千歳町では、千歳の宮の祭りを、毎年若い者中心に執りおこなってきた。昭和六年ごろまでは樽神輿(たるみこし)であったが、のちに白木の神輿が作られ、戦前は青年会、戦後は青年団がになった。青年団は、男女いっしょに盆踊りや演芸会や町の運動会なども運営してきたが、祭りには男子が神輿をかつぎ、女子は芋をふかすなどの料理を作って協力した。その青年団もいつのまにか解散し、昭和四十年代には神輿のかつぎ手がいなくなった。一二人いた部長に人数を集めるように要請をしたが、四十代の人まで含めても二十数人しか集まらず、神輿をかつぐのは重くてきついものになった。
そんな状況のなかで町の全面的な区画整理かおこなわれ、昭和六十一年に女神輿が誕生した。女神輿のリーダーであるTさんによると、「男神輿だけでは寂しいから、女神輿も出したらにぎやかになる」という提案がもとになっているという。しかし、「一年ばっかりのものならやっても仕方がない」、「駅前だから町の恥になる」などの反対の声もあった。だが当時町はドーナツ化現象でさびしくなり、町に注目させ関心をもたせるものを何かやらなければいけない、町の活性化につながり人が集まるものを何かやろうという気持ちがあったので、「絶対やらせてくれ」といって譲らなかった。その結果許可が出て、最初の年はこども神輿でやり、三年目に飯山市の業者に依頼して神輿を新しく作ってもらった。Tさんによると、新しい神輿を目の前にしたときには、自分で生んだこどもみたいにかわいくて仕方なかったという。その年には一〇〇人以上もの女性が集まった。かつぎ手になるのには、当初推薦人が必要であるとしていたが、より盛んにするために広く募集することにして、町に勤めている人などを中心に松代や小布施町などからも集まった。
九月十四日の夕刻、こども神輿の渡御(とぎょ)のあと、女神輿(女組連)と男神輿(若連神輿)は、千歳の宮に参拝し木遣りを奉納したあと、夫婦神輿として連なって町のなかを練り歩く。男神輿の先に立ちはするけれども男神輿を立てる女神輿でありたいという。オンベの合図のとおりに大通りの真ん中を練り歩き、最後は全員が神輿に付いて宮入りをする。この女神輿の登場で男神輿も活気づき、自然とかつぎ手も増えてきた。平成七年には寄付金により重さ五〇〇キログラムのけやき作りの新しい神輿が作られた。元区長のNさんは、女神輿の誕生を町の発展と結びつけて、館報『みなみちとせ』(平成二年)でこう語っている。
祭りの花形は神輿だ。総勢二百名近い若者に出ていただきその内約半数が女性である。このように祭りがにぎやかになってきたことがマチが活気を帯び発展のバロメーターと思う。昔を思い返すと終戦直後にお祭りが復活したが当時は食糧難の時代で、空腹を抱えさつま芋をかじりお酒もアルコールをうめて飲んで担ぎ回ったものだった。しかし娯楽が多くなると担ぐ人が年々少なくなり一時は中止せざるを得ないと考える事が度々あったがどうにか続いてきた。それが一転昨今のにぎわいである。女神輿が人気をよんだことはわがマチの発展を物語っている。このにぎわいが何時迄も続き後世に引き継がれていくことを願っている。この女神輿は他の町にも影響をあたえ、箱清水ではママさん神輿が登場した。