長野盆地のおいたち

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長野盆地は、善光寺平(だいら)とよばれる平坦部(へいたんぶ)とその両縁部(りょうえんぶ)の山地からなる盆状の地形である。県歌「信濃の国」で肥沃(ひよく)の地と歌われている善光寺平は、県下でもっとも平坦な沖積地(ちゅうせきち)でもある。この長野盆地はどのようにできたのであろうか。これを解く鍵(かぎ)は、盆地を埋めている堆積物(たいせきぶつ)や西縁部(せいえんぶ)の地形に隠されている。

 屋代(千曲市)で大きく方向を変えた千曲川は、蛇行しながら長野盆地を流れる。この千曲川へ西から聖(ひじり)川・犀(さい)川・浅川が、東からは蛭(ひる)川・保科(ほしな)川が合流する。これらの河川が山地から盆地へ出るあたりに、犀川は川中島平をつくる犀川扇状地(せんじょうち)、裾花(すそばな)川と浅川は長野市街地をのせる扇状地、蛭川は松代の街をのせる扇状地、保科川は若穂川田をのせる扇状地が形成され、これら扇状地の上に多くの長野市民が生活している。


図1 長野盆地の地形(小林,1997に河川名を加筆)

 扇状地は、上流域で浸食(しんしょく)され豪雨(ごうう)時に洪水流(こうずいりゅう)や土石流(どせきりゅう)によって運ばれた土砂(どしゃ)によってつくられ、その規模は、河川流域の広さや山地からの土砂の量に比例している。盆地が形成されだした時代から盆地には土砂が運ばれ、低い場所をつぎつぎと埋めるように堆積していった。この盆地にたまった土砂はいつごろからたまり、盆地の地下にはどのくらいたまっているのだろうか。この疑問に答える確かな資料が得られてきた。

 昭和六十三年(一九八八)権堂町(ごんどうちょう)で温泉を掘るためのボーリングが実施された。ここでは地下七六五メートルまで掘削(くっさく)がおこなわれ、地下深所(しんしょ)にどんな地層があるかはじめてわかってきた。その結果、地表にみられるような扇状地の砂礫層(されきそう)は七六五メートルまでつづき、それでもまだ盆地の底まで達していないことがわかったのである。このことから長野盆地には約八〇〇メートルの砂礫層が堆積していることが明らかになり、松本盆地や諏訪盆地の約四〇〇メートルの堆積物にくらべると、倍以上の厚い砂礫層がたまっていることが確かめられた。また、権堂町地表の標高が三六五メートルであるから、ボーリングの底は海面下四〇〇メートルということになり、初期の盆地に堆積した扇状地砂礫層は少なくとも海面より四〇〇メートル沈降(ちんこう)していることもわかってきた。

 この砂礫層のなかには、厚いシルト層や砂層なども挟(はさ)まれていることから、連続的に扇状地の砂礫層だけを堆積する環境ではなく、ときには湖沼(こしょう)の時期もあったことを示している。しかし、全体としては、盆地が誕生してから現在とほぼ同じような扇状地や氾濫原(はんらんげん)の堆積物が堆積してきたことを物語っている。では、いつごろからこれらの堆積物が盆地にたまりだしたのだろうか。

 初期の長野盆地に堆積した地層は豊野層(とよのそう)とよばれ、豊野町の豊野丘陵周辺に広く分布している。岩相(がんそう)はシルト層と砂層からなる半固結(はんこけつ)状態の地層で、植物化石や淡水性の珪藻(けいそう)や、タニシ・シジミ・カラスガイなど貝化石をふくむことから湖に堆積した湖成(こせい)層である。この地層は盆地の西縁部に沿う若槻(わかつき)、城山、小柴見(こしばみ)などの丘陵地で小規模な分布が確認されている。しかし、盆地の地下での分布状態はわかっていない。この豊野層が堆積した時期は、盆地周辺に分布する火山灰層や地形との関係から、およそ五〇万年前と推定されている。この時期は盆地の形成が始まった時期でもある。


写真1 初期の長野盆地に堆積した小柴見(こしばみ)の豊野層(とよのそう)
(盆地がわへ急傾斜するシルト層と砂層)