東部山地の傾動と遺跡の埋没

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長野盆地東部山地は、西がわ山地より古い時代の地層や岩石からできている。大柳(おおやなぎ)(若穂綿内)には県天然記念物に指定されている枕状溶岩(まくらじょうようがん)の露頭(ろとう)がある(文化31頁66参照)。この溶岩層は、フォッサマグナの海が形成されたころの海底に噴出した玄武岩(げんぶがん)の溶岩で保科玄武岩とよばれている。長野市に分布する地層のなかでもっとも古い(約一五〇〇万年前)地層で、海底に噴出した溶岩がつぎつぎと固まりながら積み重なり、細長い枕を積み重ねたような状態を示し、海底での激しい火山活動を物語る噴出物である。同じころ、豊栄(とよさか)(松代町)地域では、安山岩(あんざんがん)の火山噴出物が厚く堆積した。これらはその後変質して緑色を帯(お)びた岩石に変わっている。これらを緑色凝灰岩類(りょくしょくぎょうかいがんるい)(グリーンタフ)とよんでいる。

 松代の象山(ぞうざん)に登ると、この尾根のところどころに灰黒(はいこく)色の泥岩(でいがん)が露出している。ぼろぼろと風化して崩れやすい地層である。この地層は、松代の周辺地域から屋代(千曲市)、上山田(千曲市)、坂城(さかき)、別所(べっしょ)(上田)へと広く分布する地層で別所層とよばれ、若穂の保科玄武岩や豊栄での安山岩の火山活動が静穏になったあとの海に堆積した細粒の堆積物である。この地層には、海に堆積したことを示す有孔虫(ゆうこうちゅう)などの微化石(びかせき)がふくまれている。

 これら東部山地を構成する古い地層は、全体として盆地がわへ傾く構造を示し、山地をつくる地層の延長部は盆地の地下へ広がっていると推定される。このような山地全体が盆地がわへ傾く構造は、盆地がわで下がり山地がわで隆起するという傾動(けいどう)運動によって形成されたものである。長野盆地西縁部の活断層が活動を開始したころから、しだいに東部山地全体の西がわへの傾きが大きくなっていった。東部山地の河川が盆地がわへ直線的に流れること、東部山地の尾根が盆地がわへのびていること、新しい時期の扇状地ほど盆地寄りに発達すること、盆地にたまった堆積物が西がわほど厚いことなどの現象は、このような東部山地の傾動運動のあらわれである。この傾動運動は現在も進行している。

 高速道路の建設にともなう遺跡調査によって、長野盆地に人びとが住むようになった縄文(じょうもん)時代以降の盆地地盤の動きがわかってきた。屋代付近の千曲川自然堤防には、縄文時代から多くの人びとが生活していた。これまでに確認されているもっとも古い遺跡は、縄文前期後葉(こうよう)(約五〇〇〇年前)の遺跡で、地表から六メートルほどの地下に埋没していた。遺跡を埋めていた土砂は千曲川の洪水によって運ばれた土砂であり、これらが断続的に堆積し遺跡を埋没させていた。縄文時代中期後葉(約四〇〇〇年前)の生活面は深度四メートル、縄文時代晩期(約二五〇〇年前)の生活面は深度二メートル、これらの埋没深度からみると、およそ一〇〇〇年に一メートルの堆積がおこなわれたことになる。東寺尾(ひがしでらお)(松代町)の松原遺跡も千曲川右岸の自然堤防にあたり、縄文時代前期末葉(まつよう)から中期初頭(しょとう)の遺物包含(ほうがん)層(約五〇〇〇年前)が地表下四メートル、千曲川右岸の榎田(えのきだ)遺跡(若穂綿内)では、弥生(やよい)時代中期(約二〇〇〇年前)の生活面が深さ二メートルに認められた。このような資料から千曲川沿いにおける自然堤防堆積物の堆積速度は、一〇〇〇年に一メートル、一年に一ミリメートルという値を示している。権堂町での堆積速度が年一・六ミリメートルであり、これらの値は、先にのべた東部山地の傾動運動による沈降と深く関連しており、盆地の西がわほど沈降量や堆積量が大きいことを示している。