清水・井戸水や小川の水に支えられた生活

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水は生物の存続に不可欠である。その水をとりまく環境は年々悪化しており、水環境は今世紀の重大課題として各方面から取り沙汰(ざた)されている。

 古来、日本人は水の湧(わ)きでる場所に「水神様」を祭り、水を大切にしてきた。

 長野市内には各所に、むかしから親しまれてきた名水がいくつもあった。郷路(ごうろ)山南麓(なんろく)の「瓜割(うりわ)り清水」は、いまもなお冷たい清水が湧きでている。謙信物見岩(けんしんものみいわ)の近くから湧きでている「一盃(いっぱい)清水」(空海(くうかい)のすすり水)、西長野の西光寺(さいこうじ)の「夏目清水」、善光寺の裏手にあった「箱清水」、湯谷の昌禅寺(しょうぜんじ)北にあった「傾城(けいせい)清水」、市立図書館下の諏訪町にあった「鳴子(なるこ)清水」、往生地(異説もある)の「柳清水」は善光寺の七清水として古くからよく知られている湧き水であった。だが、その大部分は涸(か)れはて、今は市水道工事協同組合がそれぞれの場所に立てた紹介の立て札にその名残(なごり)をとどめているにすぎない。

 長野盆地の周辺部には数多くの泉がある。松代町皆神山麓(みなかみさんろく)の「松井の泉」は一部が大日(だいにち)水源として上水道に使われている。ミネラルを多量にふくむこの清水は、近年遠方から飲み水として汲(く)みにくる人びとが増(ふ)え、人気のある名水となっている。

 明治十一年(一八七八)、明治天皇北陸巡幸の折、若槻田子(わかつきたこ)の御小休所(おこやすみどころ)でお茶水として供された「田子の御膳水(ごぜんすい)」は、三登山(みとやま)のふもとに湧きでている泉である。当時七〇軒にすぎなかった田子村に八軒もの酒造家が蔵を並べ、この泉の水を引いて酒造りをしていた。「田子酒」は善光寺平一円に広く知られた銘酒であった。いまもなお清らかな御膳水がこんこんと湧きでている。

 若穂綿内の「東勝寺の霊水」もむかしから飲料水として利用され、酒屋ではこの水を引いて酒造りをし、東方山麓一帯の水田の灌漑用水として稲づくりを支えてきた。明治十二年には鮭の養魚場が設けられたこともあり、綿内上水道の水源地になったこともあった。

 泉のない場所では小川の水や井戸水を生活用水として使用してきた。犀川扇状地(せんじょうち)の川中島平の人びとは古くから犀川の伏流水を飲み水として使ってきた。犀川末端の真島地域は地下水の水位が高いが、扇状地扇央(せんおう)の川中島地域の井戸は水位が低かったので、各家庭で井戸を掘ることができず共同の井戸から飲み水を汲み上げていた。犀川から分水した堰(せぎ)(上(かみ)堰・中(なか)堰・下(しも)堰、鯨沢(けいざわ)堰・小山堰)は犀川扇状地一帯の水田の灌漑用水として使われるだけではなく、顔を洗ったり、鍋(なべ)・釜(かま)、野菜などを洗う生活用水でもあった。


写真4 犀川(落合橋の上流)

 長野市東部を流れる日本最長の千曲川は、三県境(ざかい)の甲武信(こぶし)ケ岳(標高二四七五メートル)に源を発し、北アルプスの槍ケ岳(やりがたけ)(標高三一八〇メートル)から流れでる犀川は、長野盆地を西部から東部へと横断して千曲川と合流している。この二大河川は流量も豊かで善光寺平の大地をうるおし、人びとの心をいやしてくれる母なる川であるが、近年汚染され、水質汚染の指標となるBOD(生物化学的酸素要求量)の経年変化をみると、犀川では環境基準を下回っているが、千曲川では近年環境基準の二ppmをこえ、大腸菌群もみられるようになってしまった。


図5 千曲川・犀川におけるBODと大腸菌群数の経年変化
(長野県生活環境部公害課資料より作成)