明治十五年(一八八二)十月六日付けの『信毎』には、町内を流れる鐘鋳(かない)川に大量の鮎(あゆ)が遡(そ)上し、豊漁でにぎわったという記事が掲載されている。当時町内を流れる中小河川がいかにきれいであったかがうかがえる。しかし、都市化のすすんだ市街地の河川は、改修によってコンクリートで固められ、草木が覆(おお)う水面下で魚の群れる川の姿は消えて、たれ流しの排水路と化し、洗剤の泡と悪臭がただよう川となってしまった。炊事、洗濯、風呂など生活全般に水道水が使われるようになり、食器洗剤や洗濯機の普及で大量の洗剤が家庭から流されるようになって、河川はいちじるしく汚染されるようになった。
川中島・篠ノ井・更北地区もまた同じ道をたどるようになった。昭和四十一年(一九六六)、県営水道が引かれ、蛇口をひねるだけで水が出る近代的な生活様式に変わると、井戸端会議はいつしか姿を消し、親しまれ愛された水辺環境も失われていった。魚が群れ、ホタルが乱舞していた古くからの土型水路の堰(せぎ)には、瀬があり淵(ふち)があった。せせらぎは人の心をいやしてくれた。昭和四十年代、その堰は、灌漑用水としての機能を十分果たすために、三面コンクリート張りに改修された。その後、家庭雑排水の流れこむ排水路となり、「小鮒(こぶな)釣りしかの川」「水は清きふるさと」と歌われたふるさとの川の姿は失われ、水辺から子どもたちの姿も消えてしまった。いまの河川の水は流れているというより流されているといった感じで、心に刻みこまれた幼いころのあの懐かしい水辺のふるさとは完全に失われてしまった。
中小河川の多くは都市排水路兼用となり、下水道未整備区からの排水によって水質汚染がすすんできている。
快適な環境づくりと河川や水路の水質を保全するために、長野市は昭和二十八年(一九五三)に中心市街地から下水道の整備を始めた。単独公共下水道のほか、市東北部および南部の千曲川流域下水道、飯綱高原の特定環境保全公共下水道の整備、農業集落排水事業の整備は着々とすすめられてきている。
地附山(じづきやま)・大峰山(おおみねやま)の南斜面から市街地に向かって流れる堀切沢(ほりきりざわ)は、三面コンクリート張りや暗渠(あんきょ)になっている河川である。この河川も生活雑排水が流れこみ水質汚染がすすんできたが、この流域は昭和五十八年下水道モデル事業「善光寺ホタル郷」に指定された。この流域の下水道が整備され、水洗化率が高まるにつれてBOD、洗剤の主成分である陰イオン界面活性剤(MBAS)、アンモニア性窒素(ちっそ)などの含有量が減少し、水質浄化がすすんできた。
現在、公共下水道・農業集落排水事業区域外の地域は、合併処理浄化槽の設置により全戸の水洗化をめざしている。一日も早くホタルが飛びかう美しい水辺を取りもどしたいという願いをこめている。