飯綱(いいずな)高原の上ゲ屋(あげや)遺跡の北東一五キロメートルに野尻湖がある。この湖の周辺だけで、四〇ヵ所の旧石器時代遺跡が確認されている。平成五年(一九九三)から七年にかけての上信越自動車道の建設工事にともなって野尻湖遺跡群(信濃町)では、旧石器時代の遺跡があいついで発掘調査された。この結果、三万年前ころの野尻湖周辺は日本列島一の遺跡の密集度を誇っていたが、二万年前の最終氷期を境に遺跡数が激減する。これはちょうどナウマンゾウやオオツノシカなどの大型獣が絶滅ないし激減し、ニホンジカなどの中小の動物群が主体になってくる時期と一致している。
このなかで平成六年十二月、長野県埋蔵文化財センターが日向林(ひなたばやし)B遺跡(信濃町)から発掘した、三万年から二万五〇〇〇年前の磨製石斧(ませいせきふ)についた脂肪酸分析を帯広畜産大学に依頼したところ、ナウマンゾウとオオツノシカの脂肪であることが判明した。その結果、従来木材の伐採に使用されたと考えられてきた磨製石斧が、大型獣の狩猟や解体にも使用されたことがわかり、三万五〇〇〇年前に絶滅したとされるナウマンゾウは二万五〇〇〇年前まで生息していたことも明らかになった。日向林B遺跡で四一個の石斧が、数個ずつかたまって輪状になって発掘されたことから、数家族が集まって共同でゾウを狩猟し、食べていたとの仮説も出された。三万年前の旧石器時代から人類が住みつき、それはナウマンゾウと共生することから始まったのである。
さらに、湖底にある立ケ鼻(たてがはな)遺跡のナウマンゾウを解体した場所(キル・サイト)からは、二つに割られた頭骨などのバラバラになった骨と、木製の槍(やり)、台石がいっしょに発見された。日本の旧石器時代の一〇〇〇にもおよぶ遺跡のなかでも、立ケ鼻遺跡は狩猟用具の石器・骨角器(こっかくき)・木器と狩りの対象のナウマンゾウ・オオツノシカが併存する貴重な遺跡なのである。
近年の調査では、こうした状況が湖底の立ケ鼻遺跡ばかりでなく、仲町(なかまち)丘陵にある仲町遺跡(信濃町)の下層部分(貫ノ木(かんのき)層)からも明らかになり、ナウマンゾウの臼歯(きゅうし)と下顎骨(かがくこつ)、足跡が検出されている。ナウマンゾウは成獣になると四トンもあり、その重量は競走馬九頭分にも相当する。したがって一頭を倒せば、数家族が一ヵ月以上も食べつなぐことができたのである。
ナウマンゾウが生存した第四紀のウルム氷期には、海面は現在より一一〇メートル以上も低下したので、日本海は湖となり、対馬(つしま)海流が流入しなかったため、今の深雪地帯の野尻湖と違って、当時の積雪量は五〇センチメートルほどであった。いっぽう森林植生はトウヒ・モミなど針葉樹の疎林(そりん)で、その周辺は豊かな草原になっていた。
ナウマンゾウは真冬でも前足で雪をかき、下草を食べて大きく成長できたのである。野尻湖の水深は現在でも三七メートルと深く、かつ湖底からの湧水が豊かである。したがって氷期でも厚く結氷しなかった。そこで、野尻湖人はナウマンゾウやオオツノシカを湖や周辺の湿地に追いこんで、身動きをとれなくして捕獲したのである。