長野市域の旧石器時代遺跡は一〇ヵ所ほどで、いずれも長野盆地外縁部の高原や山間地に分布している。その代表的な遺跡が飯綱高原にある上ゲ屋遺跡である。その年代は今から二万年前の後期旧石器時代の後半にあたる。
上ゲ屋遺跡は昭和三十六年(一九六一)に最初の発掘調査がおこなわれ、平成六年(一九九四)からは市誌編さんにともなう確認調査や周辺の分布調査も実施された。この遺跡は飯綱高原のほぼ中央、大座法師(だいざほうし)池西の広い湿原にのぞむ西向き緩斜面に位置し、現在その南がわに戸隠バードラインが通っている。
最初の調査では動物を捕獲する槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)、それを解体したり、切りきざむナイフ形石器、皮をはいだり、なめしたりする掻器(そうき)、骨に溝を彫(ほ)ったり加工する彫刻器(ちょうこくき)、穴あけ揉錐器(もみきりき)、さらに石器づくりに使う石刃(せきじん)など七〇八点もの石器が出土した(図9)。遺跡からは石器をつくった作業場と考えられる石片が集中するブロックと、焼けた河原石が集中する礫(れき)群が発掘された。後者は捕獲した動物を石焼きバーベキューなどにした調理場であろう。しかし、はっきりした居住の跡がなかったことから、動物の皮や植物を用いた簡単なテント小屋をつくり、動物などの食料を求めて移動生活を送っていたものと考えられる。
この遺跡の石器の材料には、和田峠の黒曜石(こくようせき)や新潟方面の頁岩(けつがん)が用いられている。直接採取かなんらかの交易によって、遠方から石材を入手していたのである。さらにナイフ形石器づくりの癖には関東地方の茂呂(もろ)型、東北地方の杉久保型、近畿地方の国府(こう)型がみられることから、上ゲ屋遺跡に住んだ人びとはそれぞれの地域の集団となんらかのかかわりをもっていたことが考えられる。
上ゲ屋遺跡の人びとは半径十数キロメートル圏内を日常生活の領域として、そのなかを周回していたと考えられ、飯綱高原は湖沼の周辺に集まる動物たちと、それを追ってきた人びとが生活の舞台とした場所であった。