旧石器時代の最終末になると気候の温暖化がすすみ、地球の歴史も更新世(こうしんせい)(洪積(こうせき)世)から完新(かんしん)世(沖積(ちゅうせき)世)に移り変わる時期を迎える。このような新しい環境に対応するために登場したのが、長さ二センチメートル、幅五ミリメートル、厚さ一ミリメートルで、一グラムにも満たない細石刃(さいせきじん)とよばれる安全カミソリの刃のような石器である。
東北アジアから日本の北海道と九州に細石器文化が伝播(でんぱ)したのは、約一万八〇〇〇年から一万五〇〇〇年前とされている。この時期北海道は大陸と陸橋でつながり、朝鮮半島とのあいだの対馬海峡は現在よりは狭く、海を渡ることも可能であったと考えられている。
こうして東北日本にはシベリアの影響をうけた北海道の白滝系や新潟県の荒屋(あらや)型細石核を主体に荒屋系彫刻器をもつ石器群が南下し、その終点にあたるのが小野平(おのだいら)遺跡(小田切)で発見された荒屋系細石核(さいせきかく)である。いっぽう、中国の華北地方や朝鮮半島の影響をうけ九州や西南日本に多く分布したのが、南佐久郡南牧村の矢出川(やでがわ)遺跡を標準とする矢出川系細石核で、矢出川遺跡はその北限にあたっている(『市誌』②、⑫参照)。
このように当時の日本には、東西日本の植生の違いを反映した対立する二つの細石器文化があり、長野市をふくむ県域は東西石器文化の接点にあたっていた。市域で唯一の細石刃をはがす細石刃核(写真20)は、小野平で農業を営む西山和之(かずゆき)によって、昭和五十四年(一九七九)五月にキャベツの植え付け作業中に発見されたのである。
この石器は約一万五〇〇〇年前の白い頁岩(けつがん)を素材にした長さ九・一センチメートル、幅二センチメートルの船底形(ふなぞこがた)をしており、幅の広い左端には細石刃をはぎとった五条の剥離(はくり)面が残されている。船の甲板にあたる平坦(へいたん)面に、棒の先につけた鹿角の先端に力を集中させて、一枚一枚細石刃をはがしていくのである。
細石刃はあまりにも小さく、しかも鋭利な刃をもっているために、単独では石器として使用することができず、木や骨でつくった棒状の軸の左右に細い溝を刻んで、そこに埋めこみ、二〇センチメートル前後の槍(やり)として用いたもので、刃の一部がつぶれれば新しい刃に替えられるという利点をもっていた。つまり、細石刃という小さな部品を組み合わせて槍をつくるという技術で、現代の機械文明の原点でもあったといえる。