いまからおよそ一万二〇〇〇年前に最終氷期が終わると、やがて日本海が形成され、日本列島が成立する。日本海の暖流からもたらされる湿気が植生を変え、食料にもなるブナ・クリ・コナラなどの落葉広葉樹が繁茂する湿潤なモンスーン気候に変わった。また冬には日本海がわを中心に大雪が降るようにもなった。これらの森にはシカ・イノシシなどが生息し、森から流れでる川には夏から冬にかけて、毎年マスやサケが日本海から遡上(そじょう)してきた。
縄文文化は豊かな森を舞台に一万年もの長いあいだ、独自性の強い狩猟・採集経済を発展させつづけたのである。これは、日本列島化した時点で、栽培に適する植物や家畜化できる動物が存在しなかったためでもあるが、それ以上に、食料となるクリ・ドングリ・ワラビなどの豊富な植物やシカ・イノシシなどの動物がいたからである。
このような自然環境の変化に対応するように、植物質食料を調理する土器と木々の茂った森のなかで効率よく動物を狩猟できる弓矢が出現する。裾花(すそばな)川に面する荷取洞窟(にとろどうくつ)(戸隠村)からは、最古の縄文草創期の隆起線文(りゅうきせんもん)土器や石槍(いしやり)が出土し、上信境(じょうしんざかい)の山岳部には隆起線文土器を出土した石小屋洞穴(いしごやどうけつ)遺跡(須坂市)、隆起線文土器や爪形文(つめがたもん)土器や早期土器を出土した湯倉(ゆぐら)洞窟遺跡(高山村)がある。この時期は洞窟や岩陰(いわかげ)を利用した住まいが多く、のちの竪穴(たてあな)住居にくらべれば住生活を営むには不安定であるが、このころはまだイヌの家畜化も不十分な段階で、岩肌でさえぎられた洞穴や岩陰はオオカミ・クマなどの獣から身を守るには安全な住まいだったといえる。
この時期の生業は植物採集より狩猟にウェイトがおかれ、石や骨角(こっかく)の槍でシカ・イノシシを中心にした動物が捕獲され、それを焼いたり煮たりして食べていたらしい。石小屋洞穴遺跡から出土した丸底の隆起線文土器は、炉のなかで倒れないように底の部分に数個の石が添えられ、土器の外面には煤(すす)、内面にはこげつきがみられた。これら最古の縄文土器は、世界各地の最古の土器が貯蔵を目的にしていたのにたいして、もっぱら煮炊きに用いられたことがわかり、縄文土器の出現は現在までつづく日本料理の「煮る文化」の原点ともなった。
こうした土器使用の伝統は早期までつづき、早期は尖り底の土器を使用しており、前期前葉になって集落が定住するようになると土器の底も平らに変化していく。
縄文早期の遺跡は飯綱大池遺跡や大座法師(だいざほうし)池遺跡は高原、松代の稲葉遺跡は高遠山の北斜面標高六五〇メートルの比較的高い山麓(さんろく)部に立地する。