縄文時代前期に長野盆地の低地に進出した縄文人は、中期に入るとふたたび山間地にも進出するようになる。西部山地を貫いて流れる犀(さい)川は両岸の山地を浸食して河岸段丘を形成し、その上に瀬脇(せわき)遺跡(七二会)や安庭(やすにわ)遺跡(信更)があり、その犀川に面する山麓斜面には吉原(よしはら)遺跡(信更)や麻庭(あさにわ)遺跡(小田切)が立地する。
麻庭遺跡は標高七〇〇メートルの傾斜の強い南斜面にあり、その上部に現在も利用されている豊かな湧水(ゆうすい)がある。吉原遺跡は標高四五〇メートルの久米路(くめじ)橋をのぞむ北斜面にあって、中期末葉から後期前葉の土器や竪穴住居一軒、硬砂岩(こうさがん)製の打製石斧や漁網のおもりの石錘(せきすい)二点が出土している。犀川流域沿いにある縄文遺跡からは、河原にある硬砂岩を用いた打製石斧や横刃形石器が目立ち、千曲川流域の粘板岩を主体とする石器とは石材を異(こと)にしている。
篠山(しのやま)山系の北斜面に面する聖(ひじり)川が形成した谷底平地にある大清水遺跡(信更)には、大きな湧水があり、中期から後晩期の遺物が大量に出土している。同じ山系南斜面の標高六四〇メートルの山腹平坦(へいたん)地にある猪平(いのたいら)遺跡(篠ノ井塩崎)は、早期から晩期までの土器が断片的に出土し、土坑(どこう)が検出されている。さらに、石川条里遺跡を見下ろす標高三六〇メートルの斜面には鶴前(つるまえ)遺跡があり、前期前葉の住居跡一軒、中期中葉の土坑一基が出土している。土坑とは縄文人が地面を掘りくぼめて、貯蔵穴や墓などに利用したものである。
これらの遺跡は比較的小規模で、縄文中期は長野盆地低地部の松原遺跡(松代町東寺尾)や屋代遺跡群(千曲市)のような大規模な遺跡を中核にして、山間部の小遺跡を取りこむ形で生活領域が拡大していったと考えられる。