縄文時代の内陸部における漁業を考えるとき、日本海がわから千曲川を遡上(そじょう)してくるサケ・マスの占めるウェイトが高かったことは、南佐久郡北相木村の早期の栃原岩陰(とちはらいわかげ)遺跡からサケかマスの骨が出土していることからもわかる。また、昭和十五年(一九四〇)に飯山の西大滝ダムができ、サケ・マスの遡上が止まる以前のことを考えても明らかである。かつて、サケは上高地までのぼり、マスは南佐久郡川上村でも確認されている。また、千曲川流域ではサケのもっとも大きな漁場であった若穂牛島では、平年で七〇〇〇~八〇〇〇匹、豊漁年で一万匹の漁獲をあげていた。そのためか、千曲川の流域には縄文時代の後期・晩期の遺跡が多く、宮崎(若穂)、佐野(山ノ内町)、山の神遺跡(飯山市)などがある。いずれも千曲川かそこに流れこむ支流の沿岸に位置している。
宮崎遺跡は長野市東南部、保基谷(ほきや)岳に源を発する保科川と赤野田(あかんた)川が形成する保科扇状地の西端部を流れる赤野田川の右岸にあり、標高は三七〇メートルである。
昭和二十三年(一九四八)にはじめて敷石住居が発掘された。昭和六十・六十二年に長野市教育委員会が畑地灌漑(かんがい)設備設置にともなう緊急調査を実施し、遺跡全域に幅一メートルのトレンチを二九本(総延長八二三メートル)入れて、地下に埋まる遺跡の状況を明らかにした。さらに、立命館大学文学部によって平成六年(一九九四)から十一年にかけて五回の発掘調査が実施されている。
遺溝は住居跡三軒、石棺墓八基、土壙墓(どこうぼ)一一基をはじめ、土器棺や土器集中区が確認された。遺物は中期後半から晩期末までの大量の縄文土器が出土しており、とくに立命館大学の調査では、分層的な発掘によって九層からは晩期後葉の土器群、一〇層からは晩期中葉の大洞C2式初頭に併行する中部地方の在地的土器の一括資料が得られている。
石器も豊富で、石鏃(せきぞく)・石錐(いしきり)をはじめ、打製石斧(せきふ)・磨製石斧、土製品では土偶(どぐう)や多量の耳飾り・土錘(どすい)、骨角器では鹿角製の銛(もり)二本、サメの背骨でつくった耳飾りなどがある。ほかに大量の獣骨も出土している。
また、人骨・獣骨・骨角器が多量に遺存し、その土壌条件も注目される。なかでも鹿の角でつくった銛(写真25)の長さは四センチメートル、幅二センチメートルで両側面にかえしをもっており、復原すれば長さ一〇センチメートルほどになる。形は海岸部の貝塚から出土する銛と変わらず、千曲川や遺跡の横を流れる赤野田川におけるサケ・マス漁のあり方を示す資料である。このような銛やサメの背骨が内陸部の遺跡から発見されたことから、当時は遠く離れた海岸部との交流もさかんであったことが明らかとなった。
さて、このように大きな銛でどんな魚を取ったかであるが、当時の千曲川にはコイ・フナ・ウグイなどの魚が生息していたが、銛で突くような大型の魚となればサケ・マス以外は考えにくい。実際に近年までの千曲川でのサケ・マス漁はこれらが背びれを水面から出して遡上してくるため、銛に似たヤスや大きな四ツ手網で漁をしている。また、縄文人がサケ・マスに大きな関心を示していたことは、飯山市の山ノ神遺跡から出土した魚を描いた土器(写真26)からもうかがわれる。これは浅い鉢形の土器の口縁部近くから底にかけて縦に、長さ七センチメートル、幅一センチメートルで腹びれを二つもつ細長い魚である。コイやフナは長さが短く胴幅が広いことを考えると、この描かれた魚はサケ・マスかシュモクザメと考えられる。