稲作技術の伝播

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長野盆地で縄文時代の終末期に、在地の氷(こおり)式土器と東海地方樫王(かしおう)式土器が東西の相互交流で使用されていたころ、西日本各地ではすでに稲作農耕が開始され、その東端は濃尾平野まで達していた。そして、その地域にもっとも近い飯田市石行(いしぎょう)遺跡で発見された晩期末の土器片には、はっきりした籾跡(もみあと)が残されていた(写真27)。信濃の地への稲作農耕の第一歩である。


写真27 飯田市石行遺跡の籾跡のついた縄文晩期土器 (飯田市教育委員会蔵)

 やがて、伊勢宮・松節(まつぶせ)遺跡や篠ノ井遺跡群のように、遺跡は水田となる後背湿地(こうはいしっち)に面した千曲川の自然堤防上に立地し、本格的な稲作農耕が開始されていく。弥生時代の到来である。弥生時代は水田耕作や金属器が大陸から伝わり、農業による余剰生産力から階級社会が出現し、中国の史書が記すクニグニが生まれた時代である。

 これにより約一万年間もつづいた縄文時代、つまりおもに自然のなかから人類が食料を採取・獲得する時代は幕を閉じ、低地を開拓して水田を造成する、自然を改変して食料をつくりだす時代が始まったのである。

 弥生時代の幕開けを告げる水稲耕作の技術は中国の長江の中・下流域で約七千年前に始まり、以後数千年にわたって品種改良や技術の改良がおこなわれ、やがて朝鮮半島を経由して日本列島にもたらされたものである。稲作は最初に北部九州に伝わり、五〇年後には東海地方西部にまで広がり、二〇〇年後には青森県にまで達した。

 近年になって、北部九州の遺跡から縄文時代終末期の水田跡が検出され、紀元前五~四世紀の縄文晩期後半を弥生早期とする考え方が広まった。その期間はつい最近まで、紀元前後三〇〇年間の約五五〇年間と考え、それを早期(紀元前四〇〇~三〇〇年ころ)・前期(紀元前三〇〇~二〇〇年ころ)・中期(紀元前二〇〇~後二五年ころ)・後期(二五~二五〇年ころ)の四期に大別していた。

 しかし、平成十五年(二〇〇三)五月、国立歴史民俗博物館は加速器質量分析(AMS)による分析で、弥生時代の開始期は通説より五〇〇年さかのぼり、現在より三〇〇〇年前という測定結果を発表した。科学分析や研究方法の進歩によって歴史が書き替えられる可能性が出てきた。

 長野盆地に稲作農耕とともにもたらされた土器は、弥生前期に篠ノ井遺跡群や塩崎遺跡群伊勢宮地点、新諏訪町遺跡(西長野)などで出土している、伊勢湾沿岸でつくられた遠賀川(おんががわ)式土器や水神平(すいじんぴら)式土器である。これらの土器は九州から伊勢湾沿岸の地域でほぼ共通してつくられた、本格的な農耕社会の土器なのである。