再葬墓と木棺墓

101 ~ 102

長野県内において、一人ないしは数人の遺体をひとつの墓穴に収容したり、火葬のような遺体処理をするのは、縄文時代の中期から晩期にかけてみられる葬法で、再葬墓(さいそうぼ)とよばれている。この再葬墓が弥生時代になっても存続する点が、善光寺平の弥生文化の大きな特色でもある。

 塩崎の鶴萩七尋岩陰(つるはぎななひろいわかげ)遺跡の墓穴からは成人四体と子ども一体をふくむ多量の焼けた人骨が出土し、その上に三個体の土器が据えられていた。篠ノ井遺跡群高速道地点でも、一メートル四方の墓穴に、焼けてはいなかったが頭蓋骨(ずがいこつ)一九個をふくむ多数の人骨が密集し、もう一つの墓穴からも十数体分の人骨が密集した状態で発掘された(写真28)。


写真28 礫床(れきしょう)をともなう再葬墓(篠ノ井遺跡群)
(県立歴史館提供)

 いっぽう、塩崎遺跡群の伊勢宮・松節地点からは一〇メートルぐらいの範囲に木棺が一〇基ほど群集して発掘された。一般的に木棺は縄文時代にはなく、弥生時代になって大陸から導入された新しい葬法であるが、ここの木棺の長さは一・二~一・五メートルしかなく、人骨が残っていた例ではひざを立てた屈肢葬(くっしそう)であった。また、ひとつの木棺に三体もの遺体を埋葬したり、棺のなかに鳥形(とりがた)土器などの小型土器を入れるなど、中期前半の再葬墓の伝統を受け継いでいる。さらに木棺を置く床や埋め土の上に小石を敷いている点も特徴である。

 篠ノ井遺跡群高速道地点から出土した人骨は、歯は縄文人より大きく、上顎(うわあご)の中切歯の内がわがくぼむ「シャベル型」の切歯をもつことから、大陸からの渡来系弥生人であることが指摘され、また伊勢宮・松節地点の人骨の計測値からも渡来系弥生人であるとされた。さらにそのうちの一体の脛(すね)には、武器と思われる鉄片が食いこんでいた。これらの人びとこそ善光寺平に最初に稲作文化を伝えた人びとであったが、かれらの葬法には縄文時代の伝統が色濃く反映されているのである。従来、初期弥生文化は水田耕作技術や金属器をもった渡来人がきて、在来人を駆逐したように考えられてきたが、初期の弥生文化を担ったのは縄文的な人びとで、中期以降になって中心的な担い手は渡来系の人たちに移るのである。