弥生中期後半(前一世紀ころ)になると、各地の弥生土器が地域ごとに強い個性をもつようになり、県北部では中野市栗林(くりばやし)遺跡を指標とする栗林式土器が千曲川流域の北信と東信、さらには下流の信濃川沿いの新潟県にまで分布する。
この土器の器形は細長く頸(くび)のすぼまった壺(つぼ)や口が開く甕(かめ)が多く、壺には太い棒状の施文具(せもんぐ)と縄文とで文様を描き、甕には縦や横の羽状文(うじょうもん)が目につく。ここに西日本の弥生式土器の器面調整である板の木目部分を押しつけて、細かい筋をつけるハケメ整形が加わる。このように栗林式土器は形や縄文装飾などに前代の土器づくりを継承しながら、ハケメ整形といった新しい技術が、北陸を介した西日本の土器づくりから導入されたのである。
この栗林式土器が使用されると、大陸系の磨製石器、種々の鉄器、青銅器・石製武器などのまったく新しい要素が入り、水稲耕作を基盤にした本格的農耕社会があらわれる。西日本の弥生社会との連動が顕在化する時期である。
長野盆地の塩崎(篠ノ井)から柳原にいたる千曲川の自然堤防上には、上流から塩崎・篠ノ井遺跡群や、松原、春山B、榎田(えのきだ)、小島・柳原各遺跡など(図10)の弥生のムラが連続し、後背湿地(こうはいしっち)が発達した篠ノ井石川や若穂の川田・綿内には水田が営まれた。
定住して水田や畑という生産基盤を所有し、農業を開始したことは、社会のしくみそのものも大きく変えていった。低地を開墾し、水田や水路をつくるには共同作業が必要で、水の管理をめぐる調整も生じる。水の管理や豊作を祈願する祭りの執行をつかさどるリーダーが求められ、役割の違いや優劣の関係から社会の階層化もすすむ。こうしたなかでムラ同士の抗争も生まれ、ムラのまわりに大きな溝をめぐらした環濠(かんごう)集落が出現するのである。