環濠集落の典型が松原遺跡(松代町東寺尾)である。発掘されたのは幅五〇~八〇メートル、長さ七〇〇メートルの高速道部分が中心であり、発掘面積は約四・三ヘクタールにのぼるが、そこから復元される弥生中期の集落は全体で二〇ヘクタール、他の集落にくらべ大規模であり、全国的にも屈指の中核集落である(写真30)。
遺跡は千曲川右岸の自然堤防上で、西がわには蛭(ひる)川が流れ、東がわが金井山・愛宕(あたご)山の急斜面となるため、後背湿地は発達していない。そのため集落規模に照らして水田可耕地が狭すぎるとの指摘があるが、この集落の水田域は愛宕山の南がわに広がる加賀井(かがい)や松代温泉団地がつくられた蛭川の両岸にある低湿地と考えたい。こうした視点に立てば、松原遺跡のある場所は蛭川流域ではもっとも洪水被害を受けにくい安定した場所であったのである。弥生中期の松原遺跡は北がわに千曲川の支流が流れこみ、西がわにも蛭川の旧流路があり、集落南端からその支流が枝分かれして、蛇行しながら集落を貫き愛宕山と金井山とのあいだを流れくだるようすが復元された。当時この川はゆるやかに流れ、よどみもあったためか、使用された土器や木製品やヒゴ状竪歯(たてば)を束ねた赤漆(あかうるし)を塗った竪櫛(たてくし)が川のなかから発掘されている。
発掘調査されたのは集落全体の五分の一ほどであるが、竪穴住居跡約三二〇軒、平地住居跡約二〇〇軒、掘立柱建物約五〇軒にのぼる。集落全体では建物が二〇〇〇軒をこえたものと考えられる。これらの建物は約一〇〇年間のあいだに建てかえられたもので、この間を三段階に分けて考えている。最初の第一期は小規模であった集落が、第二期になると突如二〇ヘクタールにまで拡大し、集落内の南西部と北東部の二ヵ所それぞれ約一ヘクタールが環濠で囲まれて、環濠内部と外部に分かれ、そのなかの各所が直線や弧状の小さな溝によって区画されていたのである。第三期になると小集落になって弥生後期に引きつがれていった。