弥生文化というと先進地の西日本ばかりに目を向ける傾向がある。しかし、長野吉田高校グランド遺跡の発掘によって、東北地方の南部を中心に東北全域に分布する天王山(てんのうやま)式土器が発掘され、さらに松原遺跡では東北南部の福島県会津若松市河原町遺跡出土土器を指標とする河原町式土器の搬入品が出土し、長野盆地への北からの文化の流れも明らかになってきた。
浅川扇状地の扇央(せんおう)部にある長野吉田高校グランド遺跡は、後期初頭の吉田式土器の指標遺跡として知られていたが、平成十一年(一九九九)の第四次発掘調査において福島県白河市天王山遺跡出土土器を指標とする天王山式土器とともに、その異系統の土器の文様が在地の吉田式土器の甕(かめ)や壺(つぼ)の頸部(けいぶ)の文様に取り入れられていた。さらには同じく東北的な石器を代表する「アメリカ石鏃(せきぞく)」とよばれる弓矢の先につけるやじりが七点も出土した(写真31)。
このやじりは流紋岩(りゅうもんがん)を材料にして側辺(そくへん)下部を両がわからU字状に深い抉(えぐ)りを入れる特徴的なやじりで、この形態はアメリカインディアンが使用したやじりに似ていることからこの名がつけられた石器である。七点のうちの三点には、抉りこみの周辺にアスファルトが付着していた。やじりを矢柄(やがら)に装着するさいの膠着材(こうちゃくざい)である。このアスファルトはここから北西約二・五キロメートルの浅川真光寺の石油産出地付近からもたらされたものであろう。
稲作農耕が進展した弥生後期の初頭に、この遺跡ではアスファルトで固定した弓矢を使用し、北にある三登山(みとやま)や浅川周辺では小動物や鳥を弓で射る狩猟もさかんであったことがわかる。また、東北地方の土器とやじりや、土器の文様が土器にまで影響をあたえていたことを考えると、吉田式土器を使用する集団のなかに天王山式土器を使用する人びとが入りこみ、一定期間共存していた可能性が考えられるのである。