赤い土器を用いたムラ

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弥生後期を代表する土器が、箱清水(はこしみず)式土器である。明治三十三年(一九〇〇)長野高等女学校(現長野西高校)の敷地から発見されたこの土器は、壺(つぼ)・鉢(はち)・高坏形(たかつきがた)の土器で、表面を入念に磨いてベンガラ(酸化第二鉄)を塗ってから焼きあげるために赤く発色し、「赤い土器」と称せられてきた(写真32)。火にかけられる甕(かめ)は赤くなく、栗林式土器の伝統を継承しながら、器面に櫛描文(くしがきもん)がほどこされる。


写真32 赤い土器群が特色の箱清水式土器
(長野県埋蔵文化財センター蔵)

 この土器は長野県北部の千曲川と犀川流域に広く分布しており、天竜川流域の土器とはその特徴が大きく異なるため、箱清水土器分布圏は「赤い土器のクニ」といった様相を示している。しかし、この分布圏内を細かくみるとそれぞれの地域的な個性をもっている。

 こうした弥生後期を特徴づける集落が篠ノ井遺跡群である。この集落は後期の中ごろに形成されはじめ、北がわの唐猫(からねこ)神社付近の円形周溝墓群と南がわの聖(ひじり)川堤防外がわの墓域のあいだに集落の中心が形成された。後期後半になると環濠(かんごう)が掘られ、東西約二〇〇メートル、南北一四〇メートルを取り囲み、内部は三ヘクタールの大集落に拡大する。ここからは竪穴(たてあな)住居一五八軒、柵列(さくれつ)一基、土坑(どこう)一九が発掘され、未発掘区をふくめるとその倍の数が想定される。中央には比較的大規模な住居が集中して有力者の存在が想定され、西がわには鉄器の加工・修理などの工房跡がまとまっていた。

 後期後半の環濠集落は小島・柳原遺跡群の水内坐一元神社(みのちにいますいちげんじんじゃ)遺跡でも発掘されている。この環濠は二重構造で内がわは幅二メートル、深さ一・九メートルの断面がV字形で、外がわは幅七~一〇メートル、深さ一・五メートルのゆるやかな掘りこみであるが、二本の環濠のあいだは濠掘削時の排土を盛り上げた土塁(どるい)があり、二本の環濠と高い土塁に囲まれた厳重に防御された集落であった。この環濠内からは木製の槍先(やりさき)と盾(たて)(写真33)が出土しており、これらは模擬戦をやってどちらが勝つかを競うことで豊作を占う予祝(よしゅく)儀礼に用いられたと考えられ、農耕儀礼のなかに戦闘行為が取り入れられたことからも社会的な緊張関係がかいま見られる。この時期は中野市がまん淵遺跡や上越市裏山遺跡のような平地を一望できる丘陵上に防御性の強い高地性集落がつくられるなど、内外の緊張関係を物語る遺跡が目立ってくる。


写真33 水内坐一元神社の盾と槍先 (市立博物館蔵)

 稲作が導入されはじめた時期の農工具の代表が石庖丁(いしぼうちょう)である。塩崎遺跡群伊勢宮地点からはこの時期の多数の石器が採集されている。磨かれた石庖丁は稲作技術の一環として朝鮮半島からもたらされた弥生時代特有の石器で、もっぱら稲穂を摘(つ)みとるのに用いられた。石庖丁とともに大陸からもたらされ磨かれた石器類は、田や水路を区画・保護する矢板や田を耕す木製耕具をつくる樹木の伐採用と荒割りに用いた太形蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)、板材を加工したり鍬(くわ)や鋤(すき)に仕上げる柱状片刃(ちゅうじょうかたば)石斧・ノミ形石斧などである。これらの石器は中期後半まで多量に使用された。若穂の春山B遺跡では中期の玉未製品(ぎょくみせいひん)と筋砥石(すじといし)が出土し、玉造りの可能性がある。なお、伊勢宮遺跡からは翡翠(ひすい)塊も出土している。

 春山B遺跡ではこれらの石器とともに鉄の斧が出土した。世界史的には石器使用のあとで金属器がそれにとってかわるが、長野盆地をふくむ東日本では春山B遺跡のように、稲作関係の石器とともに鉄の道具も導入され、そのあと弥生後期になると篠ノ井遺跡群のように鉄鎌(かま)・鉄鏃(ぞく)の鉄器の種類も増し、石器が突然消滅してしまう。

 なお、弥生時代の青銅器が中期後半の若宮箭塚(やづか)遺跡(千曲市)から細形銅剣(写真34)、塩崎遺跡群松節(まつぶせ)地点の銅剣、篠ノ井遺跡群の重圏文(じゅうけんもん)鏡が出土している。若宮箭塚遺跡の細形銅剣は折れた剣を再加工して茎(なかご)部をつくりだし、柄(え)をつける穴をあけ、切先を再度研ぎだしている。これと同じように松原遺跡から出土した石戈(せきか)は折れた切先がわを再加工して斧のような刃を研ぎだしている。


写真34 千曲市若宮箭塚遺跡の細形銅剣(千曲市佐良志奈神社蔵)

 県下の弥生時代の大型青銅器は、塩尻市柴宮(しばみや)遺跡の銅鐸(どうたく)を除くと、千曲川流域に分布の中心があるのである。