石川条里遺跡では中期後半の栗林期から水田経営が開始され、ヨシなどが繁茂する湿地を開墾して水田を開いていった。土地のこまかな起伏をそのままにして、等高線に沿って水田を長方形に区画し、水路は区画にたいし斜めに走っていた。弥生後期の水田面には杭(くい)を打った水路跡が発見された(写真35)。幅三・二メートル、総延長四〇〇メートルにもおよぶ大規模なものである。さらに、クヌギでつくられた鋤・鍬などの弥生から古墳時代の農耕具が県内ではじめて発掘された。千曲川の自然堤防上に集落、その後背湿地に水田という弥生時代の土地利用の実態が発掘によって証明されたのである。
川田条里遺跡は保科扇状地の末端に位置し、現在の水田下に一〇面の埋没水田が確認された(写真36)。地表面下八〇センチメートルに江戸時代の稲株跡を残す水田面、その下に鎌倉・平安・奈良の水田面がつづき、古墳時代の水田面は二メートル四方の小区画水田であった。また弥生後期の水田には木材を多用した灌漑(かんがい)用の水路が設けられていた。弥生中期の水田は自然流路に沿う低く狭い範囲に、三〇~八〇センチメートルの畦(あぜ)を地形の傾斜に合わせて直交、平行させ、傾斜方向に水口(みなくち)を設け、一つの区画の面積は三〇平方メートル前後で、現在の水田面積の三〇分の一ほどであった。水田は水を溜(た)めるためにかならず水平であることが不可欠で、水の入った田んぼは天然のダムとしての役割を果たしてきた。田んぼを中心とする農村風景は、人間と自然との合作の姿である。そこは人の手が毎年入ることで動植物が生きつづけられる環境をつくりだしてきたのである。
弥生時代には平地に定住して、家や倉庫を建て、農具の材料、薪などに山から伐採した樹木を使った。また、石川条里遺跡の灌漑施設の水路跡に残された大量の木材のように、水田耕作にともなう水路や畦に使用される樹木の量もかなりの量にのぼったのである。里山と人とのかかわりは、弥生時代になって平地での稲作農業の開始とともに始まったのである。
稲の収穫は石庖丁(いしぼうちょう)で稲穂を摘みとり、それを高床(たかゆか)の倉庫に保存して、食べる直前に臼(うす)と竪杵(たてぎね)で脱穀して、これを土器で煮て食べた。しかし、稲作が始まったからといって、米ばかりを食べていたのではない。松原遺跡の壺(つぼ)のなかには多量のアワが詰まっており、篠ノ井遺跡群の溝からはオニグルミ・トチノミ・モモ・アンズやヒョウタンの種、さらにイノシシ・ニホンジカの骨や角も出土している。石川条里遺跡の宮ノ前地点からは、シカの肩甲骨(けんこうこつ)に焼き熱した火箸(ひばし)状のものをあててそのひび割れのしかたで吉凶を占った卜骨(ぼくこつ)が出土している。シカの角に幾筋かの平行線を刻む刻骨(こくこつ)も用いられ、祭祀(さいし)用楽器説がある。これも稲作文化とともに大陸から伝えられたものである。