弥生時代の墓は先の伊勢宮・松節(まつぶせ)地点の木棺墓(もっかんぼ)群から、弥生中期後半には松原遺跡や徳間本堂原遺跡の礫床(れきしょう)木棺墓群となり規模が小さいが、後期中葉になると篠ノ井遺跡群新幹線地点のように円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が密集するようになる。発掘数は五五基であったが、その墓域は約一〇〇メートルの範域に広がることを考えると六〇〇基ほどが想定されるのである。これらの墓は直径七メートル前後で、金属製の釧(くしろ)などの副葬品があっても階層差を示すまでにはいたっていない。これだけの数の墓が継続的につくりつづけられたことは、ここでの生産と生活がきわめて安定していたことを物語っている。
円形周溝墓は後期後半にもつくられるが、篠ノ井遺跡群高速道地点の円形周溝墓(写真37)からは、鉄剣と鉄釧・銅釧、ガラス小玉が出ている。鉄製武器が副葬されることから武力を背景にした階層や当時の緊張関係があらわれているとみてよかろう。鉄釧や銅釧は西日本の弥生時代の墓にはない副葬品で、とくに鉄板を螺旋形(らせんけい)に巻いた鉄釧は篠ノ井遺跡群、檀田(まゆみだ)遺跡など市内各地から出土しているが、これは日本海がわからもたらされた鉄素材でつくられ、北関東にまでおよんでいる。このことから、千曲川を回廊にして、日本海と太平洋を結ぶ流通ルートが形成されていたことが明らかになってきた。
さらに、千曲川流域で特徴的な「赤い土器」とよばれる箱清水式土器は、関東の土器(群馬の樽(たる)式、埼玉の吉ケ谷式、神奈川の朝光寺原式)とも共通の様式をもっている。弥生時代後期になると、東海・関東・信越と広域にわたる政治・文化圏が形成されていたのである。ここへ、朝鮮半島南部の伽耶(かや)地域でよく使われていた渦巻き装飾をもつ鉄剣が根塚(ねつか)遺跡(木島平村)から出土したことから、日本海を介しての朝鮮半島との交流の可能性も考えられ、その事実は山陰地方でも判明しつつある。
松原遺跡から比高差一五〇メートルの山頂上には北平(きただいら)一号墳が築造される。善光寺平最古級の三世紀末の墳丘墓である。集落から離れて、しかもその集落を見下ろす山の尾根に単独で築造されるようになる。その規模は長さ一七メートル、幅一五メートルで後方部に二基の埋葬部をもち、ともに礫槨(れきかく)のなかに組み合わせ式箱形木棺があり、棺上に葬送儀礼に用いた土器を置き、棺内には勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)・ガラス小玉が副葬されていた。