前方後方墳から前方後円墳へ

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長野市城にある古墳の総数は約八七〇基で、このうち前方後方墳と前方後円墳は合わせて一六基確認されている(図11)。


図11 長野市域の主要古墳と古墳時代遺跡

 三世紀の初頭に前方後方墳が築造され、以後前方後方墳は広く東日本各地へ広がる。県内でも、全長三二メートルの姫塚(ひめづか)古墳(篠ノ井石川)をはじめ、弘法山(こうぼうやま)古墳(松本市)、代田山狐塚(しろたやまきつねづか)古墳(飯田市)、瀧の峯(たきのみね)古墳(佐久市)など、各盆地に四世紀までに前方後方墳が築造されていく。

 弘法山古墳から出土した高坏(たかつき)・手焙り形(てあぶりがた)土器などの土器はすべて東海系土器で、三世紀後半のものであり、県下の前方後方墳のなかでもっとも早くつくられた古墳である。現在までのところ古い前方後方墳が発見されているのは東海地方で、東日本の多くの前方後方墳は、東海地方で生みだされたとする見方が有力である。

 三世紀の日本列島のようすは、中国の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によると、女王卑弥呼(ひみこ)をいただき三十余国を従えた邪馬台国(やまたいこく)とともに、これと拮抗(きっこう)した勢力をもつ狗奴(くな)国があった。邪馬台国のあった場所は、論争点であるが、畿内(きない)説に立てば、狗奴国はその東方にある東海地方に置くこともできる。政治状況を前方後方墳の広がりと重ねあわせると、東北地方南部まで分布するこの時期の前方後方墳は、狗奴国連合の表徴であったと考えることもできるのである。

 信濃においても前方後方墳姫塚古墳から前方後円墳の川柳(せんりゅう)将軍塚古墳にとってかわられ、東海地方と同様、信濃の地に着実に大和政権の影響が浸透し、土器も近畿系の器種が東海系にとってかわるようになる。