更埴条里の広い水田面の背後の比高差一一〇メートルの屋根上に、全長一〇〇メートル、県内最大の前方後円墳の森将軍塚古墳(千曲市)がつくられる。竪穴(たてあな)石室は長さ七・六メートル、幅二・三メートル、高さ二メートルで、床面積は日本最大である。周辺から九四基の小型埋葬施設が出土した。副装品には前期の有力古墳に副葬される三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)があり、墳丘は一面葺(ふき)石におおわれ、円筒・朝顔形・壺形(つぼがた)の埴輪(はにわ)がとりまくように配置され、後円部には家形(いえがた)埴輪が置かれていた。形式、副装品、埴輪は近畿地方と共通した大型前方後円墳である(写真38)。
対岸の石川条里の背後には、全長九三メートルの前方後円墳の川柳将軍塚古墳がつくられた。後円部と前方部に一基ずつの堅穴式石室があり、中国製の前漢(ぜんかん)鏡などの鏡、琴似形(ことじがた)石製品などが数多く出土している。
盆地の南部にあって千曲川をはさんで両岸の山頂に位置する二つの将軍塚古墳は、いずれも千曲川流域ではもっとも生産力の高かった更埴条里・石川条里の沖積面を一望する、まさに「国見の丘(くにみのおか)」ともいえる平地に張りだした尾根の頂部に立地し、死後も自分の支配した地域を見渡せる場所を選んでいるのである。
県下ではこの二つの前方後円墳が抜きんでている。築造技術、埴輪、埋葬施設、副葬品は畿内からもたらされ、畿内を中心に全国に分布する規模の大きな前方後円墳と同じで、畿内の大和王権が全国規模で拡大していった政治体制のなかに、組みこまれたことを意味している。
その被葬者こそ、この地域に居住した複数の集団のリーダーたちをたばねる首長であり、その存在を内外から認められた人物で、まさに「王」とよぶにふさわしい人物であった。ともに巨大な古墳の後円部につくられた堅固な竪穴石室にたった一人で埋葬される。その権威と権力を象徴するかのように、川柳将軍塚の被葬者は琴似形石製品・石突形(いしづきがた)石製品を有した。これを組み合わせると王権のシンボル「玉杖(ぎょくじょう)」となるものである。さらに十字鎬(しのぎ)をつくりだした銅鏃、「儀仗(ぎじょう)の矢鏃(やぞく)」も所有していたのである。