地域王権の確立と変容

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この森将軍塚古墳の被葬者の首長権は、更埴条里を取り囲む尾根上に単独で築かれた土口(どぐち)将軍塚・倉科(くらしな)将軍塚・有明山(ありあけやま)将軍塚古墳(千曲市)の順に継承されていったと考えられる。川柳将軍塚の被葬者の首長権は中郷(なかごう)古墳・越(こし)将軍塚古墳へと引き継がれていった。長野市と千曲市との境にある土口将軍塚古墳は全長六五メートルの前方後円墳で、後円部に同時につくられた二基の竪穴式石室をもち、副葬品は武器などが多く王が武人の王としての性格を強めてきた。

 その後も善光寺平の両岸で首長権を継承した前方後円墳が築かれていき、この地域こそ四~五世紀の古い古墳が分布する「科野(しなの)王権」の所在地であった。その首長権の継承をめぐって、和田東山(わだひがしやま)古墳群(若穂)が発掘されたことにより新たな視点から検討される段階に入った。

 保科の東山の尾根上には三基の前方後円墳と二基の円墳が最近確認された。そのうち全長四二メートルの前方後円墳である東山三号古墳が発掘され、長さ五メートル、幅一・四メートルの竪穴石室(写真39)をもち、内行六花文鏡(ないこうろっかもんきょう)・鉄斧・ヤリガンナ・砥石(といし)を有する四世紀末の古墳であることが判明した。これにより、従来は善光寺平南部で考えられてきた前期古墳の変遷をもう少し広いエリアのなかで、とらえなおす必要性が提起された。


写真39 和田東山3号墳の石室 (明治大学博物館提供)

 和田東山古墳群の同一尾根上に三基の前方後円墳が順次築造されている状況は、他の単独立地の前方後円墳とは異なり、同一集団の継続的な築造と考えられ、川田地区の広い水田面を支配した歴代の首長墓で、この地はその支配地を見下ろす奥津城(おくつき)(墓)であったと考えられるのである。