首長と祭祀

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稲荷山駅裏の石川条里遺跡の高速道地点の微高地にある幅六メートル、一辺一〇〇メートルの溝がめぐる祭祀(さいし)遺構からは、多数の土坑(どこう)と建築後にすぐにこわされた平地住居の痕跡(こんせき)が認められた。大溝(おおみぞ)からは建築材、川柳将軍塚古墳の副葬品に似た鏡、銅鏃(どうぞく)、石釧(いしくしろ)、玉類がこわされた状態で出土し、この西がわに低湿地をはさんだ微高地からも集石遺構、多量の土師器(はじき)、石釧、勾玉(まがたま)、木製品が出土した。この場所では、首長層と民衆がいっしょになって農耕儀礼の祭祀が繰りかえしおこなわれ、そして川柳将軍塚古墳の首長からつぎの中郷古墳の首長へと首長権が継承される儀礼がおこなわれたところと考えられる。

 ここでは自然堤防上の集落域、後背湿地の生産域、山頂・山麓部の墓域の空間利用が明確で、稲荷山駅裏の祭祀遺構は集落域と墓域とを分ける祭祀域の役割を果たしていたのである。

 駒沢新町(こまざわあらまち)遺跡は浅川扇状地の扇端部の湧水(ゆうすい)地点にあり、水霊(すいれい)信仰にもとづいて、ここで農耕の豊饒(ほうじょう)を祈る祭りをおこない、そこで使用した大量の土器を穴のなかに埋納した祭祀遺跡である。九ヵ所の祭祀遺構のうち、六ヵ所が古墳前期末から後期のもので、一号祭祀跡は五世紀中ごろにつくられ、長方形の穴のなかに五〇〇個をこす土器類、数個の勾玉、剣や鏡をまねた滑石(かっせき)製模造品、臼玉(うすだま)九〇〇個やガラス小玉、鉄製品が収められていた。

 四ツ屋遺跡(松代町清野)からは一部に円形埴輪を立てた直径二〇メートルの円形周溝遺構が確認され、埴輪(はにわ)列のなかには多数の供献・祭祀土器が置かれていたことから、水害などを鎮める水神祭祀跡と考えられている。

 こうした祭祀場における祭祀の執行は、民衆の生活・生産に直接かかわっていたため、地域集団内における王の存在と権威を示すうえで欠かすことのできないものであった。