古墳を支えた自然堤防上のムラ

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大きな古墳を築造する背景にあった集落がどこに存在したかは、古墳時代の歴史を考えるうえで重要である。千曲川の自然堤防上の岡田川と聖(ひじり)川とのあいだの篠ノ井遺跡群では、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳が築造された四世紀後半に住居跡などの遺構が急増する。このことから、この集落の形成には川柳将軍塚古墳に埋葬された首長のかかわりが濃厚で、竪穴(たてあな)住居からの小型の珠文鏡(しゅもんきょう)(原始扉写真)の出土も注目される。

 中期には県道長野上田線地点に集落が密集し、住居にはカマドが導入され、須恵器(すえき)が大量に使用され、臼玉(うすだま)一五〇〇点、その製作跡や小規模な鍛冶(かじ)跡も確認され、集落内で各種の手工業生産がおこなわれていたことも明らかになった。

 後期になると遺跡群全面に集落域が拡大し、出土遺物では集落ではまれな耳環(じかん)・水晶製切子玉(きりこだま)、水晶製三輪玉などがみられ、この集落の居住者の一部が後期古墳の築造階層に属していたことが考えられる。

 千曲川の自然堤防上にある榎田(えのきだ)遺跡(綿内)からは総数九〇〇軒ほどの住居跡が発掘され、ほとんどが古墳後期で、中期に住居跡にはカマドや須恵器が導入され、鉄製の鍬(くわ)、鋤(すき)先や木製鍬などの農耕具、子持勾玉(こもちまがたま)や玉類が、さらに幅二〇メートルの河川跡から土師器(はじき)、須恵器、木製鐙(あぶみ)・鞍(くら)(写真40)・剣の鞘(さや)、腰掛、鳥形木製品、杼(ひ)・紡錘車(ぼうすいしゃ)などの紡織具、扉、梁(はり)・梯子(はしご)などの建築材、漆塗りの櫛(くし)、竪杵(たてぎね)、鍬・鋤・エブリ、曲物(まげもの)、獣骨、植物遺体など大量の遺物が出土した。ここに住んだ住民にかかわる古墳群は山新田崖錐(がいすい)地形にある大柳や清水原古墳群である。


写真40 榎田古墳出土の鞍(上)と鐙
(県立歴史館蔵)