積石塚古墳と合掌形石室

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前方後円墳は、腰村古墳(篠ノ井小松原)の六世紀初頭を最後に善光寺平では築造されなくなり、積石塚(つみいしづか)古墳が登場してくる。五世紀中ごろ以降の古墳は広い沖積地を離れ、従来はなかった扇状地の扇頂部や扇央部へと進出してくる。それは、この時期に扇状地の開発が進展してきたことを物語っている。

 積石塚古墳は全国に約二〇〇〇基ほどがあり、このうちの約四〇パーセントが長野市を中心とする県北部に集中し、長野盆地の古墳文化の特徴の一つになっている。さらに、古墳時代の中期と後期の合掌形石室と積石塚古墳はいずれも、大室(おおむろ)古墳群(松代町大室)を中心とする県北部の善光寺平に異常な集中傾向を示している。

 大室古墳群は奇妙山と尼巌(あまかざり)山から張りだす尾根が南から金井山、霞城(かじょう)、北山とつづき、これらの尾根上とそれらのあいだの二つの谷間に金井山(一八)・霞城(一六)・北谷(二〇八)・大室谷(二四一)・北山(二二)の五つの古墳群に分かれ、合計五〇五基を数える。

 大室古墳群の八〇パーセントの四〇〇基が積石塚古墳である。積石塚古墳とは土のかわりに石を積み上げた古墳で、塚が古墳を意味することばであることから略して積石塚といわれる。積石塚は九州から東北地方まで分布するが、一ヵ所に四〇〇基も集中するのは日本最大で、さらに全国的に特異な合掌形石室(写真42)を二八基も有している。こうした二つの大きな特徴から平成九年(一九九七)に国史跡に指定された。


写真42 大室古墳225号墳(合掌形石室)

 そのうち合掌形石室は、現在まで盆地を中心とする長野県に三九(ほかに可能性が考えられるものが二二)、山梨県に一、福島県一、山形県二で、日本海をはさんだ朝鮮半島の百済(くだら)の地である韓国公州市に四基確認されている。

 国内で最古のものは若穂の大星山(おおぼしやま)二号古墳や大室一五六号古墳で、五世紀前半でも中ごろに近い時期である。大星山二号古墳は合掌形石室をもつ一辺一四メートルの土盛り方墳で、石室の天井は二枚の大型板石を合掌天井形に組み合わせるのではなく、小さな板石を瓦(かわら)を葺(ふ)くように持ち送り状に重ね合わせていくものである。

 六世紀中ごろから後半にかけての最後の合掌形石室をもつ竹原笹塚(たけはらささつか)古墳(松代町東条)は、背の低い横穴石室状の石組みの上部に大きな平石を屋根形にかけるものである。

 明治大学による大室谷古墳群の発掘調査では、五世紀代に一、二の合掌形石室から築造が開始され、やがてそのまわりにつぎつぎと竪穴式石室をもつ古墳から横穴式石室をもつ古墳へと築造されていくことが明らかになった。つまり、合掌形石室に埋葬された古墳の被葬者こそが大室古墳形成の先駆者であったことは、間違いない事実である。

 合掌形石室が朝鮮半島の百済の地にあり、その系譜関係こそはっきりはしないが、五世紀の中ごろ、朝鮮半島南部から馬の飼育に長じた渡来系集団がこの地に渡来し、隣の保科扇状地や千曲川の氾濫原(はんらんげん)で馬の飼育をおこない、『延喜式(えんぎしき)』の「大室牧(おおむろのまき)」をさかのぼる数百年以前から牧場経営がおこなわれていたことが考えられる。